一冊の本を読み終えた。今まで物語のクライマックスを夢中になってたどっていた左の人差し指がかすかに熱を帯びている。点字書はＡ４版のかなり厚い紙で１２０ページ程度あるから大きくて重い。膝において右手で支えながら、左手の人差し指を行の左から右にすべらせ続けるので、腕の力もいる。それでも、初めて点字本を一冊読み終えた充実感の大きさと深さは、思いがけないものだった。
　今から約２年前の平成１３年３月末、私は日本点字図書館の３階の一室で点字教室を主宰する松谷詩子（うたこ）先生と向かいあっていた。松谷先生は私よりはるかに若い全盲の女性である。
　「この歳になってから点字を読めるようになれるものでしょうか」
　 「７０歳で始められる方もいるのですよ。３年間は教えますからゆっくりと焦らずに勉強してはいかがですか」
　中高年の中途視覚障害者の点字習得は難しい、特に５０代後半をすぎると難しさが増すと聞いていた私は不安だった。私はまさにその年頃なのだ。
　翌月から点字教室に通い始めた。週１回７０分の授業である。同じ教室には７人ほどの生徒がいた。だいたいが私より年下だ。授業はマンツーマンでテキストを私がたどたどしく指でたどり、先生がチェックしてくれる。日本点字図書館の点字学習のやり方は、まず徹底的に「読む」ことから始まる。
　 「書く」はある程度点字が読めるようになるころからようやく始める。点字学習の方法はいろいろあると思うが、このやり方は私にとってはうまくいった。
　私には何よりも点字で本が読みたいというおさえがたい欲求があった。失われた読書の楽しさを取り戻したかったのだ。
　五十音を終わり、濁音、拗音、数符、半濁音と進みページ半分くらいの短い文章を読むまでに半年近くかかった。
１年近くたったころ先生に「テキストばかりでなく点訳本を読んでみたら」といわれ、以前から読もうと決めていた漱石の小説を読み始めた。
　前に活字で読んでおり、内容が頭に残っているので読みやすかった。
　 最初点字にふれたときは、指も頭も動かない。そこをふんばって一語一語たどる。漱石の文章はセンテンスが長い。活字で４、５行あれば、点字ではその３倍以上になる。マスあけされた点字の一語一語が読みとれるとその長いセンテンスの全容がわかってくる。つまり昔英語の文を読んだように、解読できる単語から次の読めない単語を推測で読んでいくのである。とても頭からすらすらと読みくだせない。センテンスの終りにたどりついたときには、はじめの方を忘れてもう一度読み直さなければならない。
　そんなふうにして最初の一冊を読み終えるのに一ヶ月かかった。それが読んでいくうちにだんだん推測読みが少なくなり、読む速度もあがっていった。ふと気がつくと指がすいすいと横にすべっていくではないか。
　 点字を読むことが「お勉強」から読書に変わっていったのだ。
　そして点字で読書ができるようになると、私もそうだがみんな元気になる。私はそれを「点字力」とひそかに呼んでいる。なぜ元気が出るのか。
　 点字を読むことができたという成功体験が元気にしてくれるのだと思うが、私にはあの六つの点から構成される不思議な点字のポツポツにさわり、それを瞬間的に頭のなかで文章に転換していくという手の作業と脳の働きが同時に行われることが、いいのだと思う。
　 視覚による読書にはこのような刺激はないだろう。もちろん触読にはかなりの集中力を必要とするから疲れるのも早い。私は１時間から１時間半が限度である。疲れると集中力が落ち、脳みそも指先も働きが鈍くなり、ごく簡単な語句が読めなくなる。中断してまったく別のことをしてまたとりかかると意外にすらすらと読めるようになる。
　というわけで「点字力」のおかげで私は元気になり、生活も変わった。
そして、なぜか中途視覚障害者の間で「点字が読める」というと一種尊敬のまなざしでみてもらえるのだ。「点字力」ってすごい。さあ、今日も点字を読もう。