海外の部 WBU-AP地域 最優秀オーツキ賞
視覚障害者なのに、どうやって人の役に立てるの?
中国・チベット   キーラ・ ジラ(33歳・女性)

チベットは中国の自治区で、ラサ市を中心とする世界最大の高原地帯です。私は1984年、チベットのエベレスト山近傍にあるラツェという村で生まれました。

両親、2人の兄、姉と私の6人がようやく暮らせるほどの小さな家に住んでいました。小さくても、心地よく暖かさが満ちた住まいでした。その村のどの家庭もそうでしたが、貧しく質素な暮らしながらも皆幸せでした。

食べ物も十分ではありませんでしたが、健康で生活に満足していました。主な食事は米とじゃがいもと青菜類でしたが、紅茶と一緒にツァンパを食べるときもありました。ツァンパとは、主に乾煎りした大麦に、塩を加えたチベットのバター茶を混ぜ合わせて練ったものです。

まだ幼く無邪気だった私達は、生活の苦しさに気づきませんでした。特に、父と2人の兄と私の4人が視覚障害者だったので、その面倒を見なければならなかった母にとっては大変なものだったのです。父は私が生まれる前に視力を失いました。でも、そうした苦しい中でも両親は私達に深い愛情を注いでくれ、私達が健康で幸せでいられるよう、できることは何でもしてくれました。ただ、姉を除いて子供達が3人共なぜ視覚障害者なのかと両親は苦悩していました。

 私達は危ないからと家の外に出ることを禁じられていました。私は外から楽しそうな声が聞こえてくるたびに、他の子供達と遊びたいと思いました。私には今も忘れられない屈辱的な経験があります。外で遊んでいる晴眼の子供達の遊びに入りたくて、ある時そっと家を抜け出したのです。ところが、あろうことか、その子達は私が目が見えないとバカにして走り去って行ったのです。

でも、私には隣家に住む親しい友達が一人いました。晴眼でとても優しい女の子です。彼女とずっと友達でいたくて、私はよく彼女におやつを分けてあげました。ある日、彼女が家に来なかったので、親に内緒でこっそり彼女の家に行ってみることにしました。ところが、隣家の庭にある蓋のない井戸に落ちてしまったのです。井戸水は私の顎まで届きました。つま先で井戸の底を蹴りながら、溺れないように懸命にもがいたのですが、大声で助けを求めることができませんでした。そのとき、母が私がいないことに気づき、どこにも私の姿が見つからなかったので、大慌てで周囲の人達に知らせ、私を探してほしいと頼んだのです。そして井戸の傍を通りかかった時、水の中で私の頭が上下しているのを見つけました。すぐに人々が駆けつけてきて私を引き上げてくれました。きつく叱られたことは言うまでもありません。罰として2ヶ月以上鍵をかけられ、外に出してもらえませんでした。

1996年、12歳のときに私の人生に大きな変化がありました。国境なき点字財団が、ラサ市内の施設で視覚障害者を対象とした訓練センターを運営しているということを両親が知りました。これはチベットで最初の視覚障害者用施設で、サブリエ・テンバーケン(視覚障害を持つドイツ人女性活動家)とポール・クローネンベルクが始めたものでした。視覚障害児が3人もいる家族があると知った施設が連絡をくれ、私達はすぐにセンターに入ることが認められました。

センターでの初日、同年代で同じ視覚障害を持つ子供達に会えるということで、私は嬉しくてたまりませんでしたが、同時に緊張もしていました。家から離れて、もう母に世話をしてもらえないかと思うと悲しい気持ちにもなりました。

母が何でもやってくれていたので、12歳になっても、服の着方も身体の洗い方も知らなかったのです。それから少しずつ日々のトレーニングに馴染んでいって、生活を楽しめるようになりました。最初の3年間で、身の回りのことや清潔に関すること、食事のマナーや家事など日常生活に必要なことを覚えました。また中国語、英語、パソコンの基礎、歩行動作も学びました。そしてもちろん、知識を得るために欠くことのできない点字をマスターしたのです。

その後、中国式のマッサージ療法と鍼療法を学んでマッサージ師の資格を取得しました。ただ、中国を始めとするアジア各国では視覚障害者の数が多く、マッサージ師が立派な仕事だということは知っていましたが、私にはチベットの視覚障害者、特に視覚障害児のために役に立つ仕事をしたいという強い気持ちがありました。拒絶され、差別を受けた私自身の屈辱的な体験や、過保護のために自分で身の回りのことさえできなかったことから、幼稚園を設立しようと思いました。それを知った親戚や村人は、「気でも狂ったんじゃないの。視覚障害者がどうやって人の役に立てるというの?」「視覚障害者なんだから、もらったものを家で食べていればいいのよ」と心が折れるような言葉を投げつけられました。

幸運にも、国境なき点字財団や心ある人達からの強力な支援のおかげでなんとか資金を調達することができ、2010年にキキ幼稚園(愛称はキキキッズ)を設立しました。視覚障害児の幼稚園はチベットでは初めてで、しかも運営も視覚障害者です。当初は、キキキッズへの入園を親達に説得するのは容易なことではありませんでした。しかし、私に対する否定的な態度や視覚障害に対する誤解が、次第に変わっていきました。

キキキッズの目標は、2歳から5歳までの視覚障害児に一般的な教育を受ける準備をさせることでした。キキキッズでは、早期介入、療育により子供達に基礎的なスキルを教えました。ここでは、子供達は友達と一緒に遊んだり笑ったりしながら、まるで自宅でいるかのように過ごしました。楽しい時も悲しい時も自分の本当の感情を表現することができました。適切な療育とトレーニングを受ければ、視覚障害児は無力な存在ではないということを社会に示すことができたのです。

2017年、中国政府が視覚障害児教育を完全に所管することになり、キキキッズは閉鎖に追い込まれました。最初は悲しく思いましたが、後になって、この政策が視覚障害者に大きな恩恵をもたらすことに気がつきました。政府がようやく前進する一歩を踏み出し、これによって中国のすべての視覚障害児が何らかの教育を受けることができるようになったことを嬉しく思います。

振り返ってみると、キキキッズのために費やした8年間は私の人生の中で最も素晴らしく、やりがいのある時間でした。多くの子供達に囲まれ、その子供達には明るい未来があると確信していました。国境なき点字財団を設立し、私も人の役に立つ市民になれるという自信を与えてくれたサブリエとポールにとても感謝しています。視覚障害者であっても無用な人間ではないということに気づけたのは、この2人のおかげです。さらに、私のような視覚障害者に勇気を持つこと、人生で何か役に立つことがでるんだという夢を持つこと、そして「できない。視覚障害者だから」というような後ろ向きの考えを決して受け入れないということを教えてくれました。

多くの人の努力から大きな恩恵を得たので、私もできる範囲で社会にお返ししたいと思うようになりました。そうした中で、視覚障害者に対する偏見を打ち破り、視覚障害に対する否定的な考えを変えることに貢献することができました。

無知と差別に対する小さな闘いではわずかな勝利を得ていますが、大きな闘いに勝利したとは到底言えません。これからも、あらゆる機会を利用して、視覚障害者を同じ市民として受け入れることを妨げている壁を取り除くための闘いを続けていきます。