国内の部 サポートの部 佳作
「69歳、父さんは盲学校1年生」
佐賀県 山田 政子(67歳)

  「主人は、見えてない」 その事に気づいたのはドライブ中でした。
孫を乗せて主人が運転していました。トンネルに入った途端、「見えん、見えん。何も見えん」と、主人がパニックになったのです。トンネルの中では交代できないからと、私の言葉での誘導でやっとトンネルを抜け運転を交代するまでは、生きた心地がしませんでした。やっぱり、主人は見えてないのか。
  眼科受診したときは、「視野が欠けてますね。欠けているところは元に戻りません」と医師に告げられた。だんだん少しずつ見えなくなっていくと言われたけれど、こんなに、階段を転げ落ちるように日一日と見えなくなるとは……。
  どうしたらいい?  何をしたらいいの?
  無事定年を迎え、これからゆっくりやりたいことができ、地元に恩返しもしないとねと、言っていた矢先のことでした。
  その頃、いい眼科があると勧められ、熊本県の人吉まで私の運転で通っていました。たまには、くま川鉄道で行くこともあり、主人もまだ少し視力があり、なかなか遠出ができない私たちの、せめてもの小旅行でした。
  次の受診でトンネルの話を伝えた後、医師は言われました。
  「カラーテレビが白黒になり、画面がザーッと乱れ、最後には1本線がスーッと入ってプツンと切れるでしょう。そういう風にして目も見えなくなります」
  あまりのことにぼうぜんとして、一瞬言葉を失いました。帰りの車中は、お互いのことを思いやって、二人とも無言でした。
  「私が動揺してどうする」  主人が見えなくなることを静かに受け入れていかなくては。もがいてばかりはいられない。負けたらアカン! これからは二人で一人前として生きていかなければと覚悟を決めました。落ち込んでいる主人を家の中に閉じこもらせてはだめだと、人が集まるところに誘いました。ゆめさが大学に行ったのもそういう思いからでした。一緒に受講する仲間の理解もあり、講義・登山・慰問とかけがえのない思い出もできました。
  眼科も佐賀の好生館に変え、そこでいい先生に出会えました。先生から、盲学校に相談に行ってみたらとパンフレットをいただき、すぐ盲学校へ行きました。そこで、盲学校の福田先生と入来先生にお会いしました。不安に思っていることやこれから先のこと等を話しているうちに、私の心の不安の塊がフーッと溶けていくのを感じました。
  そして、点字の勉強を始めることになりました。白杖での歩行も、歩行訓練士の南先生に、我が家を起点としての歩行を教えてもらうことができました。5月から3月まで点字を教えていただきました。1月に盲学校の専攻科を受験してみてはと先生から勧められ、主人も希望して受験しました。
  平成28年4月8日、盲学校入学式、主人69歳。専攻科1年生として、晴れて盲学校の門をくぐりました。今までとは全く違う第二の人生の始まりです。孫みたいにかわいい小学1年生も一緒の入学式。小学部・中学部の元気で明るい子どもたちに励まされます。二日目からは早速授業。聞き慣れない専門用語に、はり、きゅう、あんま・マッサージ。朝5時半起床。朝食まで机に向かい、7時25分、我が家を出発。バスを乗り継ぎ、学校へ。夜は寝るのが12時過ぎるのも珍しくありません。あんま・マッサージの授業では親指の付け根が腫れ上がり、見ている私の方がつらくなりました。
  10月2日は文化祭でした。音楽部に入った主人は、ハンドベルのミとソの担当です。放課後も指導していただき、家でも毎日練習していました。当日は、私も見に行きました。小学1年生は、自分がやりたいことやできたことを、劇の中で発表しました。子どもたちは、ピアノに太鼓に歌に劇と堂々と発表していきました。主人もハンドベルを子どもたちと一緒に無事演じきりました。目の不自由さをみじんも感じさせない見事な演技の子どもたちと、指導された先生方に感動さえ覚えました。最後は先生方の歌とダンスで盛り上がりすばらしい文化祭でした。
  公開授業も見に行きました。授業を真剣に受けている主人の姿に、安堵するとともに心打たれました。
  主人は、年を重ねてからの過酷すぎる自分の運命を静かに受け入れ、努力に努力を重ね、1年生の修了証書を無事いただくことができました。先生方のご指導や周りの方々の手助けがあってこそできたことだと思います。
  平坦な道ではないけれど、主人の後押しをしたり、引っ張ったりしながら、これから先も乗り越えていこうと思います。
  頑張ろうね、父さん。