海外の部 WBU-AP地域 ジュニア・グループ 佳作
視覚障害者である私の人生における良い経験と機会について
インドネシア  ヌール・シャリフ・ラマダーン(24歳・男性)

バーパック・カレンド・オセンは、1976年に彼がしたことが今日の英語学習の発展に大きな影響をもたらすとは夢にも思わなかったことでしょう。彼から英語を学びたかった二人の学生から話は始まり、彼はある村の設立の先駆者となったのです。村の数は増え、今ではどこにでもあります。人々はその村をパレ英語村と呼んでいます。村は、英語を話す能力を伸ばしたいものにとって最適な場所であるように設計されています。
英語村はパレ・ケデリ区内の ツルングレホとパレム村の2つの村にまたがっています。便利で重要な場所にあり、学習方法が楽しく、近くには観光名所が多くあるので、バハサを知りたい、あるいは旅行を楽しみたい人にとって魅力の地となっています。大学にいた頃に英語村について初めて聞きました。その時は3学期目で、学生のグループが英語村について話していたのです。彼らは海外で英語の勉強を続けたがっていましたが、彼らの英語の能力は大したものではありまでせんでした。
心の中で英語村に興味を抱き始めました。私の友人の多くは大学の休暇、約3か月を英語村で学び過ごしていたのです。母は私がこの案を相談すると、やみくもに反対しました。この時もまた母は私の目の障害を私の夢を阻む理由にしました。   
母は賛成しませんでしたが、私はその希望を胸に抱き続けました。いつか英語村で学ぶという夢のために、2014年から金を少しずつ貯めました。母に関しては私がさらに努力をすれば説得できるだろうと確信していたのです。ついに私の祈りや努力の答えが出る時が来ました。明らかにことわざは真実だったのです。「意志があれば道は開ける」と。
2014年の南スラウェシ州でのパラリンピックで、低視力T12のカテゴリーで100Mと200Mの短距離走において2つの銀メダルを受賞しました。これらの業績のおかげで、私が代表したシドラップ地区の政府が、二つのメダルと一緒に一千万ルピアを授けてくれたのです。税金を払い終え、残りのお金を授業料に充てて、また一部を母にあげ、三百万ルピアを英語村で後に使うために貯金しました。
2016年10月、卒業からちょうど1か月後、夢は現実となりました。英語村への850キロの旅へ、午後1時15分にシティリンク航空で故郷を離れたのです。
私の母には他の選択肢はなかったのです。私を行かせるしかありませんでした。母にはすでに航空チケットを購入してから報告しました。母は涙と祈りと共に私を送ってくれました。私は母がどんなふうに感じていたか理解していました。私の視覚障害は彼女の不安の原因でした。今でも時折私が独立して生きていけるのか心配します、私が何度大丈夫だと安心させようとしても。
私の出発のずいぶん前から、英語村の学習方法やプログラム、教育施設、ジャバ島以外の出身者にとって一番簡単な旅程など様々な情報を入手していました。
出発の1週間前には、私に最も適したプログラムを提供する施設のオンライン手続きも済ませていました。その際には私は自分の視覚障害について報告しませんでした。なぜかというと、私の経験によると、公共の施設で私が学びたい時はいつも障碍について報告すると、とても腹立たしい理由で断られる場合が多かったからです。
たとえば、マカサの第六公立高校や、その後マカサ州立大学に進みたかった時に、学術テストに合格し入学過程を進めている際に、私の進路を邪魔し私の教育を得る権利を阻もうとした人達がいたのです。
英語村に着いてから私は手続きを済ませていた施設の指導者にすぐに会い、自分の障碍について説明し、そこで用いられている学習方法について質問しました。そこで視覚障害者をどう教えればいいか意見を交わしました。もちろん話し合いのときに、講師たちの間には困惑もあったと思いますが、学習方法について意見を述べていくうち、次第に彼らも理解してくれて、私を教えるのにさして困難を感じなくなったようです。
アクセスの良さに関しては、英語村は障害のある人たちにまだ便利ではありません。英語村で障害問題に着手したことのある施設や団体は皆無です。もしも今まで障害者を受け入れたことがないのだとしたら、今後英語村の教育施設や団体は障碍のある人々がアクセスしやすいような環境を作るべきだと思います。
英語村で別の施設で学んでいたもう一人の視覚障害者に出会いました。彼の名はヘンディ・ホギア。インドネシア大学で教育を終えた西スマトラ出身の盲目者です。出会いの中で私たちは自分たちの経験を分かち合い、学んだ学習方法を比較しました。私たちが学んだ施設で将来障害者を受け入れることがあるなら、そこで生徒達が困らないような最善の方法について考えたりしました。彼は英語村に来る前に、手続きをした施設から一度断られたそうです。英語村に着いてから学べる場所を見つけたそうです。
英語村に着いてから3か月間、ある施設からまた別の施設に移動しました、新しい環境や空気を求めて、障害のある学生に理解を深めてもらえるように、訪れる各施設で支持を要請しながら。ヘンディ・ホギアが経験した拒絶を将来誰かが経験しなくてもいいように。
英語村に着いてから直面した一番大きな課題は、TOEFLやIELTSテストを視覚障害者が受けるための最善の方法がまだ見つからないという点です。英語村を去ってからもまだ解決方法を見つけられていません。
英語村にいた最後の月、以前に学んだある施設から、講師にならないかと声をかけられました。その際は英語のスピーキングクラスを任されただけでしたが、もちろんその仕事はお引き受けしました。出来ると思ったからです。そこに長くいることはできなかったので、1か月だけ働きました。
私は英語村を去らなくてはいけませんでした、私の次の夢を現実のものとし、別の国で教育を受け、次の有益な経験を積むために。
それらを実現できると私は確信しています。
あなたはいかがですか?