海外の部 ABU地域 ジュニア・グループ 佳作
知識人、何が彼らを教育したのか、社会における彼らの役割とはなにか。
キルギス  アザット・トクトンバエフ(25歳・男性)

 知識人とはだれか。もし、あなたが人々にこの質問をしたら、様々な回答が返ってくるでしょう。ある人は、たくさんのことを学んだ人と言うでしょうし、他の人は、たぶんもっと複雑だと言うでしょう。

 第一の選択:たくさんのことを知っている人々
 しかし、どうやって、どこで、なんの知識と経験を得たことをもって、教育を受けた(教養ある)と考えられるのでしょうか。
 私は、教育についての本当の欲望というものは、何よりもまず、知識についての渇望、単なる事実や決まり文句を詰め込むのではなく、何ものかを本当に理解し、手にしたいという本物の企てであると信じます。どこで、どうやって、学んだかは問題ではありません。コンピューターに向かって座り、インターネットを介してであれ、高等教育機関で学んだのであれ。主要なことは、何か新しいものについて理解したいという欲望です。
 本当に教養のある人は、自分のことを「教養のある」と考える人ではなく、また、教育機関を卒業した人でもありません。周囲の世界に影響を与える人、自分自身の世界観を持った人であるべきです。周囲の人々に影響を与え、変えていくことが社会をよりよくするのです。

 教養ある人は、自分自身を向上させます。そうした人は、常に創造的であり、「箱の外側」を考え、美学的な味わいを持っているものです。
 普通、そして歴史的に、教育を受ける唯一の道は、大学に入ることです。知識はこれまで特権階級に属する特定の人びとだけに所有されていました。
 すべての親たちは、子供たちを大学に生かせなければならないと感じさせられています。特別な大学で組まれた限られた知識、教授と彼らの意見によって開発されたプログラム(限られたカリキュラム)を学び、手に入れるために。
 今日では書籍や知識や論説は、誰でも手に入れることができます。もしも大学に行かなくても、図書館にアクセスする機会が無く、教育機会が限られていたとしても、インターネットを通じて教育を受けることができます。
 私の国では、多くの人が「免状」を追い求めています。彼らは(単科)大学に登録はしますが、多くの場合、クラスや講義には参加せず、合格するためや良い成績のためにお金を払うに至ります。
 問題は、「免状」に価値があるのではなく、習うこと、学ぶことから得た知識にこそ、価値があるのです。

 私は、教育を受けた人々には、社会における固有の役割があると考えています。彼らは、社会「進歩のエンジン役」であり、私たちの世界、人生、思想の自由を学んだ、教育を受けた人々にこそ、感謝の気持ちはささげられるものです。
 私たちは今、たくさんの重要な機器を使っています。たとえば、私が今、こうして原稿をタイプしているコンピューターは、知識を広げようとした一人の人間が創造したものから発展させられたものです。

 教育を受けた人がいればいるほど、経済的にも文化的にも国を発展させることがより容易になります。
 どんな国も、自身の持つ批判的な知性のある社会を形作るよう、奮闘すべきだと思います。なぜでしょうか。なぜならば、教育を受けた人々は政治宣伝に感染しやすいということがより少なく、また批判的な思考ができるからです。
 教育を受けた聡明な人々は、自身の生涯を通して、自身が受けた教育と知性とを実物見本として(人々の前に) 例示できるからです。一人一人が違った個性として行動し、思考する人として。よく読む人々は、たくさんの話題について会話をサポートできます。こうした人々は、しなやかに政治的活動ができ、国の政治的な生活に参加して、素晴らしいリーダーや重要な人物になるのです。

 教育を受けた人々は、必ずしも近代社会というわけではありませんが、もちろん社会を必要とします。ニコラエヴィッチ・トルストイさえ、次のように書いています。
「物質的にも精神的にも、そのようなわずかな発達程度の教育を受けた人々は、自分にとって異質なものに対しては、何事にも明らかに反発する。ヨーロッパには合理的な経済が存在する、それは人々が教育を受けているからである。したがって私たちは、教育を受けた人々に基礎をおいて(社会を)構成しなければならない、それがすべてである」。

 教育を受けていない人々は、自身の小さな世界に住んでいます。彼らは(本を)読まずに、他の人々、他の国々、 世界について、何もしりません。彼は多くをしりません。恐らく、仕事を見つけるのは困難でしょう。彼は、犯罪に誘われやすいでしょう。彼は自分を取り巻く世界に関心がありません。

 教育を受けていない人々は、純粋で悪魔的な原理に影響を受けやすく、心の底からそうした原理を信じてしまいます。どうしてでしょうか。なぜならば、かれは批判的な思考を持ち合わせていないからです。彼は自分自身の考えというものを持っていません。彼は、こうしたイデオロギーの挑戦を受けて、行動するのです。彼は、原理的な考えにより敏感なのです。

 今日の世界の非常に大きな問題とは、テロリズムです。テロリズムは、国とも性別とも宗教とも無縁です。非合法のテロリスト組織は、しばしば社会的弱者に人材を求めます。彼らはしばしば、教育にアクセスしたことのなかった貧しい人々です。
世界をたくさん見て知っている人は、学び、理解する機会を持っていました。そうした人は、ごまかしに誘惑されることが少ないのです。ですから、私たちはよりたくさんの読み書き能力を持った人々が必要です。人々がより多くの知識を持てば、ミスリードされたりごまかされたたりといった機会がより少なくなります。教育を受けた人々は、如才がありません:彼は世界を知っていて、新たな合理的な考えにも開かれています。

 外国人嫌いや同性愛嫌い、レイシズムやその他、同じような考えは、多くの場合、貧しい教育しか受けなかっ た人々に支持されがちです。なぜならば、彼らは、家庭とか友達とか、隣近所とか、顔なじみといった狭い範囲に限られているからです。彼らがこうした限られた枠、彼らが「知識」と考えを受け取る枠、を越えて出ることはめったにありません。彼らは、外見や意見や伝統が違う人々について、わずかの知識しかありません。
 人は、自分が知らないことについては、特に恐れる者です。このことが、しばしば貧しい人々がレイシズムやナチズムといった悪徳に影響されやすい理由です。

 私の国で私は、多くの役人や法律執行機関らが彼らの権限を越え、一般市民がこうした権力による迫害から身を守ることを知らないということをしばしば目撃します。教育は、ここでも再び、法と秩序に敬意を払い、公正で、平等な社会を築くための鍵だということが言えます。

 私の国には、たくさんのいい法律がありますが、多くは適正に機能しないか、実行されていません。今でも、村や小さな町では、見も知らない男たちに誘拐されて結婚させられる女性たちがいます。一度、誘拐のニュースが広まると、多くの女性たちは帰るべき場所が分からないだけでなく、村や小さな町の他の人々から受ける非難や恥を恐れるようになってしまいます。今日まで依然として、私たちの社会は、男性一般や結婚相手を誘拐する男性たちに寛容であることが残されています。

 教育はこうした状況を変えることができますから、人々は自らの権利を知り、自らの権利を守ることができるようになることでしょう。

 私が大学に入ったとき、私は大きな問題に出くわしました。大学はいまだかつて視覚障害者(全盲)を入学させたことがなかったのです。私は白杖の使い方の訓練を受けたことがなく、キャンパスを歩き回ることができませんでした。私は、大学が私を採用することを望まず、来校するのを思いとどまるよう努めたと思っています。
 しかし、にもかかわらず、一人の健全な考えの人がいて、彼は私の側に立ち、すべての人は良い教育を受ける権利があると言ってくれたのです。

 障害のある人々は、私の国ではしばしば汚名を着せられます。車いすは一つもありません。多くの障害者は家の中にいることを余儀なくされます。彼らは教育を受けることも、新しい人との出会いも、新しい友人を作ることも、外へ出かけることも、生活を楽しむこともできません。私は、良い国家とはすべての市民に対して、質の高い教育にアクセスできるようにしなければならないと思います。私は今、大学に戻って、言葉を勉強しようと考えています。