国内の部 成人の部 佳作
「被爆者の声を6点にのせて」
長崎県  蔡 云 (ツァイ ユン) (42歳・女性) 
 それは14年前の出来事だった。5年の留学生活を経て、私が長崎県立盲学校に赴任してから1年半が過ぎようとしていた。
 初秋のある日、一本の電話がかかってきた。受話器を取ると、母国語の中国語を話す女性の声が耳に飛び込んできた。懐かしい母国語で話す嬉しさとともに、その内容に驚いた。彼女は「国立長崎原爆死没者追悼平和記念館」のスタッフだ。記念館では翌年の開館に合わせ、被爆者手記の一部を他言語に翻訳し、さらにそれらを点字化する作業を進めているようだ。その中で、手記の中国語点訳を私にしてほしいという依頼だった。

 原爆という言葉を初めて聞いたのは確か小学校の歴史の授業だった。その時のイメージは原爆イコール終戦だった。まだ幼かった私には原爆という言葉が心には止まらなかった。二度目に原爆を耳にしたのは長崎に来る直前だった。「長崎には原爆の影響が残っていないだろうか」という中国にいる友達からの心配の声だった。「きっと大丈夫よ」と意味もなく、ただ漠然とそう返事をした。
 2001年4月、長崎での生活がスタートした。教会や洋館、中華街、異国情緒のあふれる街に多国籍の人々が穏やかに暮らしている。多くの市民が行き交う街並みは他の都市と何一つ変わらなかった。半世紀以上も前にこの街に原子爆弾が投下されたことを想像するのは難しかった。しかし2か月後、原爆の真実を知ることとなった。
 盲学校に赴任した年の6月に、生徒たちの平和学習の引率で原爆資料館を訪れた。写真や映像で被爆後の街の様子を見ることはできなかったものの、音声と点字の説明、手で触れる展示品の数々から原爆の悲惨さを感じ取ることができた。あの閃光ときのこ雲により街が一瞬にして廃虚となり、熱線と爆風で7万以上もの尊い命が奪われた事実は想像を絶した。被爆された方々の多くが、心も体も60年近くを経た今なお、原爆の後遺症に苦しめられ続けていることにさらに衝撃を受けた。

 「お手伝いさせていただきます」と彼女の依頼を引き受けた。原爆についてほとんど知識のなかった私が資料館で感じた思いから、やはりほとんど知られていないだろう中国の視覚障害者に原爆の実情を少しでも伝えたい、そう考えた。
 それからは仕事の合間を縫っての点訳が始まった。彼女が読み上げる手記を聞きながら、中国語点字に訳していく作業は被爆された方々の声に耳を傾ける貴重な体験となった。一編一編の手記からは、原爆の残酷さ、戦争の不当さ、そして何よりも一瞬のうちに命を絶たれた多くの人々の無念さを感じずにはいられなかった。被爆直後のあまりもの惨状に時には涙をこらえきれないこともあった。手記を点訳していくうちに、今この地で日々穏やかに暮らせる平和の尊さを今更ながら実感した。生きながらえながら苦しみ・悲しみ、戦争への憎しみ、生への愛おしさ、平和への願いを紡いだ被爆者一人一人の生の声を正確に中国の視覚障害者たちに伝えたい、その気持ちがますます強くなっていった。一文も一文字も間違ってはならないと、常に全神経を指先に集中させた。
 作業は約3か月間続き、春になって手記の中国語点字版が遂に完成した。開館に合わせ、その年の7月に平和記念館を訪れた。あった。閲覧室の一角に手記が置かれてあった。被爆された方々の声がこの点字版手記から、中国の視覚障害者たちに届けられることを思うと、言いようのない喜びが込み上げてきた。
 あれから時が静かに流れ、10余年の歳月が過ぎ去っていた。昨年、被爆70年の節目の年に久々に記念館を訪れた。原爆で亡くなられた方々に黙祷をささげ、閲覧室に赴いた。あった。あの時と変わらぬ場所に手記が置かれてあった。原爆の真相が中国の視覚障害者の心に届けられ、平和の大切さ、命の尊さを感じ取っていただけることを願いながら、懐かしく手記にそっと指を走らせた。