海外の部 EBU地域 シニア・グループ 佳作
点字への思い
ベルギー     ナタリー・ダンジョウ(56歳・女性)
 小さい頃からずっと、本は私にとってもっとも大切なものでした。
 私の父親は膨大な数のあらゆる種類の本に囲まれていました。
 夕方になるとよく、私はその一つを手に取り開けては閉じ、また開けては閉じと、インクと紙の香りを感じていました。

 高揚感!その甘い香りは心地よく、私の魂を癒してくれるかのようでした。

 本はそれぞれがその香りを持ち、それぞれのページがやがて友達になるであろうとの夢と瞑想から成り立っていました。一方、私の考えを実在のものとする証明を与えることもできました。

 私は読書を愛しており、あらゆる点から本を愛していました。

 個人的な目的、私はこれらをよく間違って使っていました。ページの角の上の折り目とか、隅っこ、一番下、一番上、線の間などの場所に入れ込んで。

 私の生活は、絵を描いたり、本を読んだり、そして休んだりと小さなことから成り立っていました。

 私は何よりもまず、三人の可愛い小さな娘の母でしたので、読書する時間を持つことができず、昼間長い時間働き、短い夜を過ごしていました。

 私の職業人としての人生は時に重なり、変化し、私生活はおきざりにされたままでした。
 しかし、ある日突然に、愛すべき仕事がやってきたのです。

 ルイ・ブライユが私に点訳者になる機会を与えてくれたのです。その時、点字を打つにはパーキンスの機械を使いました。この機械は点筆と点字盤の代わりになったのです。
 私は、仕事を通して点字を学びました。

 はじめの一週間は、点(字)を夢に見るくらいでした。私の心はすっかりこの素晴らしい書法にとりつかれてしまったのです。

 私の毎日は本当に大変でした。私たちは一文字一文字、一語一語、タイプし、ページを繰っていきました。

 一つの間違いと(間違った)ページ、それを夢に見て、またやり直し・・・続けて、また、そしてまた。

 点字のページが私の机の隅に集まってきた時はまさに神様に感謝するくらいの喜びを感じ、他のことは色褪せて見えました。
 最後の文字がページの一番下に現れた時の喜び。
 そして、すぐに次に続く本がやってきて私の仕事がまた始まるのです。私の人生の秒、分、時間単位に浸透していきました。
 何度も繰り返して、何度も何度も。

 私は目の前で文字が形を成すのを目にします。私は絵を描いたり塗ったりするのが好きでした。しかし私が目にするものは、そうしたものとは完全に別の世界から、間違いなく完全に私自身からきたものです。形も、心を貫きとおした実物です。
 点字は私にとってのアイデンティティー、自信をもたらし、一人一人にめりはりとリズムを与えてくれます。
 私は目が見えます。そしてこの仕事が私に提供してくれるものは、目が見えない点字使用者と同じ次元のものではありません。彼らにとって、点字は自立をもたらします。文化、娯楽、勉強・・・に近づくことができます。私はただ私が見えるものを点字に写し替える見える人にすぎないのです。

 点が踊りだします、跳ねています。動いています。震えています。私の目の前で身振り手振りをしています。
 今回、私は小説に取り組んでいます。私はそれを読みましたか?もし私が点訳者でないならば?おそらく、おそらくそうはしないでしょう。どんな状況においても、意図的であれ、そうでないとしても、わたしの前にあるページは、本全体を複写するのではなく、ざっと目を通すだけで終わってしまうでしょう。

 私は最初のページを取り、ざっと目を通し、印刷と点字にしなくてはならない左右対称性や相互関連性を理解します。複写はありのままを複写すること。誰かが望むものを書き写すのではありません。つまり、あなたには訓練と、厳格さ、あなたが読んでいるものに干渉されない強い個性が必要とされます。仕事において、あなたの脳が分けられるライン、読むことと、点字への翻訳(点訳)です。あなたは2つのことを同時に考えなければいけません。点字の正確性の為には、しばしば物語を脳に残すことを許されない場合があります。それにもかかわらず、あなたは既に読んでいるものを、再読までしているのです。

 誰が数ページを読みはじめず、数分後に私たちの注意がそれて私たちの集中力は蒸発されてしまったので、それを読みなおさなければいけないのでしょうか?
 点訳をするにあたり、それは同じことです。1時間経って、読んだ内容について何も残っていなくても、点訳ではそれで正しいのです。
 読まれて何も覚えていない本について、何が言えるというのでしょうか?
 私たちは動詞の“読む”という言葉を使うことができますか?もしくは他の動詞を発明するべきでしょうか?

 この読むということを、文字で、スペースで、筋道の立たない理解を超えて支配しているコードでどう説明したらよいのでしょうか?

 わかることはできます。しかし、理解することはできません。

 (点訳を)することはできます。しかし理解することはできません。

 正すことはできます。しかしどうしてかは知ることができません。

 でも、その時、時間はそこにあります。(なぜかということを誰が知ってますか?)
 疲れで妨害されない一日。心がより元気で活発な時。存在する問題が遠ざかった時、素晴らしい日。全てが我々の道である時。

 読むことはもう一度意味を持たせます。活発な興味ある読書は夢を持たせてくれ、私たちの想像力を高めてくれます。

 その時に点訳者の仕事は最高のものとなるのです。読書が私たちの魂やマインドの深い部分にもたらすものと結合するのであり、それと同時に点字を読む人々のための注意深い、難しい仕事でもあるからです。

 書くことは私たちを一つにします。

 ただのシンボルが、文字が、言葉が視覚的に探まっていきます。
 おそらく、世界の読者の平均をゆうに超えています。
 その時とは、点字を視覚でチェックする時です。私は点字が触れることによって読まれるべきものとして設計されていると確信しており、動かすのは文字ではなく全体のコンセプトとイメージです。全ての言語が独自のイメージを持っています。

 私は、“p”を見ます。しかし同じように”paille”という言葉を見ます。(pailleとは、英語で藁という意味)

 文字は小さな石、線は道、全体のページは地域とも言えます。テキストは絵になります。そこが、奇跡が起こる場所なのです。
 点訳者のイメージは止まることがありません。それはとても美しく、とても真実です。
 私は推測します。その言葉の、文章の最後を想像してみてください。
 点字を読む目の見えない人々は、ほとんどが言葉や文字まで触って想像しているようです。

 書くことが私たちをひとつにしてくれます。

 コンピューターにありがとう。仕事が面倒でなくなりました。
 一文字見逃したら・・・
 がさつな人が本のページの上に水をこぼしたとしたら・・・
 時間が経つにつれて点字が擦れてなくなっていたならば・・・
 ・・・そうしたら、再度、印刷すればいいのです。

 点訳は専門のソフトウエアで自動化されました。しかし点訳者は常に個人のやり方で今でも貢献しています。
 (プロセスは)進化し続けていますが、点字は今でもまだ続いています。200歳を数える視覚障害者だけの書字法である点字は、テキストの構造を進化させることを許されてきました。加えて点字はあらゆる最新のテクノロジーに適応することができます。

 私たちは自分たちの仕事から離れません。それは今だに素晴らしいからです。

 書くことは私たちをひとつにします。