海外の部 ABU地域 最優秀オーツキ賞
平和のうちに生きるには
インド      シーマ・パフジャ(48歳・女性)

 人間は、他の全ての自然の創造物と同様に、常に平和のうちに生まれます。人間は森羅万象の中で最も力ある存在です。その知的能力は計り知れず、創造的エネルギーには限りがなく、感情の表象も無限です。人間以外の生物の活動領域はほぼ定まっており、限定されていますが、人間の活動領域は言葉に尽くせないほど広く、限界を超えています。他の生物の生活の様子を見てみると、彼らは全て、自らがおかれた自然条件によって脅かされているだろうにも拘らず、平和を愛しており、自らの限られた欲求が満たされればそれで満足しているらしいことが明らかにわかります。人間だけが、自らに与えられた能力のゆえに、他の生物を支配し、制御しているのですが、平穏な日々を過ごせていないのです。
 さて、そうすると、本質的に平和を愛する生き物であるはずの、人間の天性を取り戻すにはどうすればよいのかという疑問が生じます。人間が再び心の穏やかさを得られればすぐに、地球全体どころか、自然全体が平和になるだろうということに異議を唱える人はいないでしょう。平和を乱す最大の悪は、ものをかき集めて自分のものにしようと思う衝動です。ヒンドゥー教で最もよく知られた叙事詩の一つであるギータの中で、クリシュナ神は、 (i)カム(Kam、色情)、(ii)ララク(Lalach、物欲)、(iii)クロドゥ(Krodh、怒り)が、人間を地獄の扉へいざなう三大悪であり、これらの悪は自己を破壊するものであるので捨て去らなければならない、と言っています(21巻16章)。
 この支配的精神は、個人、家庭、カーストや地域社会、また、世界平和を確立する責任を担う超大国にも実在します。全ての人々が、平和的共存の原則を受容して認めれば、人間は心穏やかに生きることができるようになり、他の生物と同様に、創造物すべてにおいて平和を確保するようになります。
 人間が「己の如く人に施せ(Atmaneva Preshaan Samacharet)」の考え方に従って、自然に環境を意識するようになれば、環境汚染はなくなり、その結果として、平和を享受することができるようになるでしょう。
 現代の人間は、いわゆる「開発」なるものを推し進めた結果、様々なゆがみに支配されるようになりました。 人間はきれいな水を汚い、汚染された水に変え、大気や土壌も汚染しました。改革主義やテロリズム、宗教的原理主義、性差別などの背後には全て、人が作り出したゆがみが存在しています。心がゆがんでしまうと、穏やかな状態でいることはできませんし、他の人が心穏やかな日常を送るのも許せなくなります。 私は再び、クリシュナ神の「ヨガとは熟練した行動である(Yoga Karmasu Kaushalam)」という教えを思い起さざるを得ません。人間が自らの行いを規制し、コントロールすることができれば、騒乱や問題は決して起こらないでしょう。物欲や誘惑に満ちたこの現代社会では、正しい行いのみを実行することに集中しなければ、人間の行いを規制することはできません。昨今、人間は、気を狂わすような物質主義の競争に加わりたいという本能に導かれ、内省を忘れて、外にばかり目を向けています。この過程から何を得たのかさえ、わかっていないのではないでしょうか?何かを一つ手に入れると、また別なものを手に入れようという気を狂わすような競争の中で、果てしない所有欲を満たそうとして、あらゆる方向に休みなく走り回っているのです。だから、どこまで行っても心の平和を得られないのです。平和とは、自制と規制を意味します。平和は得ることではなく、与えることによって実現します。人間が、つかみ取ることではなく、分かち合うことを学び、得ることではなく、与えることを学べば、平和のうちに生きることが可能となるでしょう。
 権力欲は、この世の中を苛立ちに満ちた不穏なものにしているもう一つの要因です。権力は、富、地位、原子力の獲得、地理的な境界線を所有することに関係しているかもしれません。あるいは、イデオロギーや感情に関係しているのかもしれません。権力は常に、個人、集団、カーストや地域社会、そして国家を酔わせ、盲目にします。権力を持った全ての人や国は、より大きな権力を得たいと考え、そのために終わりのない争いの罠にはまり、自分の支配下にあるものを一つも手放したくないと考えるからです。全てを食し、自分のものにしようという欲望は、人をとても恐ろしいものとし、他人から距離を置くだけでなく、自分自身からさえも距離を置くようになります。そうして、人はとても危険で恐ろしい存在となり、周囲から敬遠され、誰からも愛されなくなります。これは全ての人にも国にも当てはまります。平和のうちに暮らしたいと思うなら、それは、他の全ての人への愛情を持ち、互いに協力し合って初めて実現します。他人から孤立し、超然と暮らしていては実現しません。孤立した生活は、人を単に一人の人間にしておくだけに過ぎませんが、その人間が全ての人のために生き、かつ死ぬことのできる人間にならなければ、平和を実現することはできません。
 現代の機械的な生活は、人間から文化を奪い、ゆがんだ方向に押しやってしまいました。確かに、現代文明は技術を通じて、多くの快適さや容易さをもたらしましたが、それにはもう一つ別な側面があります。今日の人間は、夜も昼も、テレビやインターネット、ソーシャルメディアにのみ込まれ、地域社会の生活から完全に疎外されています。生きた人間と一緒にいて、共に活動することから得られる、フェイスブックやツイッターでは得られない喜びを忘れてしまっています。周囲の人々と話をすることで感じられる相互関係性は、電子メールやグーグルによるコミュニケーションからは感じられません。人間は、これらの技術の進歩をうまく活用して、恩恵とすべきだったのですが、実際には、呪いとしてしまいました。このことも、平和が実現できず、社会が不穏であることの重要な理由の一つです。結論として言えるのは、人間は、「全ての人を繁栄させ、全ての人を幸福にする」という考え方に基づいて、文明を創造し、かつ徐々に人道主義的な文化を築いてきたにもかかわらず、まさに、その文明を破壊する手段を創造しつつあるということです。これらの手段を破壊することが必要だとは言いませんが、気を狂わすような所有競争に参加し続けるのをやめて、自らを省みることが必要でしょう。同様に、人間の知的能力を縮小する必要はありませんが、感情とのバランスをうまくとることが必要でしょう。また、物質主義的な喜びや所有物を手放す必要はありませんが、精神主義に同化させ、適正な量の消費を行うことが必要でしょう。人間は、前例がなく、並ぶもののない無限の能力、そして権力をも手にしているのですから、自らを律し、自制することができるはずです。そうすれば、人間は、開発への熱意を保ちながらも、再び、周囲の環境や世界全体、そして、自らの意識の中に平和を実現することができます。ゆがみのない心さえあれば、最高の尊厳に到達することができるのです。
 世界のいかなる文明においても、優れた叙事詩の中では、平和を確立するという名目のもとで戦われた、長年にわたる大規模な戦争が描かれています。20世紀には、平和の確立を目的として二つの世界大戦が起こりましたが、それでも世界平和は実現できませんでした。戦争は、憎しみ、競争、暴力、犯罪、偏見などをまき散らすだけです。平和を確立しようとするなら、全ての人々が共存し、かつ平等であるという原則を受け入れるしかありません。平和を実現する最も強力な武器は愛です。だから、私たちは全ての人々が平和的に共存できるものと信じます。ラーマーヤナやマハーバーラタなどの叙事詩は、戦争の後に平和が実現することを描いていますが、平和を確立するにはもう一つ別な、戦争を必要としない道があります。それは、「国境を越えた友愛精神」です。国連という大きな単位であれ、個人という小さな単位であれ、全ての単位において、パートナーシップ、平等、尊厳そして共存という原理を受容し、認めなければなりません。そうして初めて、平和に生きることができるようになり、私たちの地球は再び、天国のように美しいものとなるでしょう。まずは、一人ひとりに対して訴え、それから地域社会全体に向けて訴えていけば、初めて「全ての人を幸福に」という夢を実現することができるのです。