海外の部 ABU地域 最優秀オーツキ賞
「障害は無能ではない 哀れみはいりません」
ヨルダン サバ・エル・コウリー(29歳・女性)

 コミュニケーションへのアクセスを得るということは、知識へのアクセスを得るということです。そしてそのことは、私たちにとって非常に重要な意味を持っています。私たちは哀れんでもらうことを必要としてはいません。また私たちが弱者であるということを改めて認識させてもらう必要もないのです。私たちは平等な扱いを受けなければなりません。そしてコミュニケーションこそが、それを実現するための方法なのです。
 視覚障害であることで真の問題となるのは、視覚障害そのものではなく、そのことに対する一般の人々の捉え方です。視覚障害者のための活動を行っている機関も、一般の人々の一部ですので、社会一般に広まっている間違った概念を持っていることがあります。ですが、視覚障害者も広い社会の一部なのです。気を付けないと、私たちは世間一般の私たちに限度があるという見方を受け入れてしまい、その結果、その限度が現実のものとなってしまう可能性があります。
 視覚障害者は、精神的、心理的に、晴眼者と違いがあるわけではありません。私たちは特別に恵まれているわけでも、特別に不運なわけでもないのです。私たちに必要なのは、仕事や機会、社会に受け入れられること、そして平等な扱いが必要なのであって、哀れまれたり、閉じ込められたりすることではないのです。
 視覚障害であることは、障害ではありますが、無力であるということではないのです。
 視覚障害者は、冷やかされたり、いじめられたり、目の見える人よりも劣っているかのように見下されたりすることを恐れることなく、障害の無い人々と一緒に扱われる権利があるべきです。
 視覚障害者は、皆と同じように扱ってほしいと思っているのであり、「特別」な扱いを欲しているのではありません。仕事をするために助けが要るかも知れませんが、眼鏡をかけているということも同様に助けのひとつです。人間は誰しも特別なものを必要としており、その必要の中身が一人一人異なるというだけなのです。世界の著名人の多くが偉業を成し遂げたのも、障害の最中にあってのことでした。ルイ・ブライユ、ベートーベン、ガリレオ・ガリレイ、ジョン・ミルトン、ヘレン・ケラー、スティーヴィー・ワンダー、フランクリン・ルーズベルト、その他多くの著名人が例に挙げられます。障害は感覚や体の状態で捉えるべきものなのではなく、心の持ちよう、精神のありかたで捉えるべきものなのです。
 トニー・クエロ(米国民主党議員)はかつて「我々にも解雇される権利を与えよ!」という言葉を述べました。
 ですが、それは解雇されたいという意味だったわけではありません。平等に扱われたいという意味です。私たちも、競争をするチャンスを欲しています。誰かが私たちを雇用したいと思わなければ、そのチャンスは得られません。私たちはほとんどのことを行うことができるのですから、他の人々と平等に扱われなければならないのです。
 哀れみの気持ちは、成果に対する期待を下げることにつながります。このことは何の助けにもなりません。障害を持った人々に課せられるハードルが低いという残念な現実は変わらなければなりません。
 「普通」とは何でしょうか? 私たちたちの持っている能力、興味、人格は一人一人異なります。ありとあらゆる種類があると言っていいでしょう。障害を持った人が学校に通い、結婚し、働き、家族を抱え、遊び、洗濯をし、買い物をし、外食をし、旅行をし、ボランティアをし、投票をし、納税をし、笑い、泣き、計画を立て、夢を見る――その様は皆とまったく同じです。障害を持った人には、哀れんでもらう必要などありません。必要なのは、機会を得るための経路です。障害に適応するということは、たくましさや勇気を要することなのではなく、ライフスタイルに順応するということなのです。
 多くの研究で、障害の無い同僚たちと比較して、障害を持った被雇用者の方が生産性が高く、信頼が置け、会社に対して忠実であり、また障害を持った被雇用者間では、定職率が72%も高いという結果が出ています。毎年新しい人を雇用し、訓練する費用が何百万ドルもかかることを考えれば、これは着目すべき結果です。能力にかかわらず、誰もが同じ威厳と尊厳をもって扱われる権利を持っているのです。
障害のある人々は、同情や哀れみを必要としていません。障害を抱えて生きていることについて、勇気がある、たくましい、と言われることも不必要です。障害を抱えた若い人の中には勇気のある人もいれば、そうでない人もいます。それは障害の有無に関わらず同じことなのです。障害を持った人々を子どものように扱う必要はありません。最大限に自立するための機会が必要なのです。
 仕事を得るためには、しかるべき訓練を済ませ、仕事をするためのしかるべき器具を手に入れ、すべての機会を探る必要があります。知りえる事柄を結集して臨むのです。
 視覚障害者は、精神的、心理的に、目の見える人と違いがあるわけではありません。私たちは特別に恵まれているわけでも、特別に不運なわけでもないのです。私たちに必要なのは仕事や機会、社会に受け入れられること、そして平等な扱いが必要なのであって、哀れまれたり、閉じ込められたりすることではないのです。
 視覚障害者が不思議な存在のように思われている、その現状を変えたいのです。大部分において、私たち視覚障害者は、皆さんと同じです。仕事をし、遊び、希望を持ち、夢を見て、笑い、そして泣く、それは皆さんとまったく同じことなのです。私たちには機会が必要です。哀れみは要りません。私たちは自分の世話を自分ですることを望んでいます。でもそれは、目の見える友だちや親戚に助けてもらいたくないという意味ではありません、というのは、助けてもらいたいという思いはあるからです。人間は皆(視覚障害であろうとなかろうと)お互いに持ちつ持たれつ、助けを求め、与え合って生きているものなのですから。
 視覚障害者は、働きたいと思っています。1日の終わりにでも、こう思い返してみて欲しいと思います――彼らに必要なのは「哀れみではなくお金なのだ」と。
 私たちに与えられるべきは哀れみではなく、理解、閉じ込めではなく、開かれた機会、ケアではなく受け入れです。人のことをかわいそうだと思っても助けにはならない、ということです。誰かに対して、自分がその人をかわいそうだと思っている、というように伝えると、その人の自己憐憫(れんびん)が強まるだけです。自己憐憫は必要ないのです。必要なのは、人生のビジョンと方向性をリセットさせてくれるような前向きな励ましです。体の感覚ではなく、心で人と接してくださり、また盲目になるのは目ではなくて、胸の中にあるハートなのだ、ということをいつも忘れずにいてくださる皆さんに感謝します。