■海外の部 ABU地域 佳作 
(ジュニア・グループ)
「視覚障害教育で国がなすべきことは?」 スリランカ ヒラーニャ・M・フェルナンド 20歳・女性

 周りをぐるっと壁に囲まれた部屋で、子どもがたった独りでいるのを想像できるだろうか。そこには生きているものの気配もなく、聞こえるのは近くにいる人の声だけ。学校なんて未知のことば。そういう状況にゾッとしないだろうか。これがスリランカにおける多くの視覚障害児の生活である。
 視覚障害者とはどのような意味があるのだろうか。この言葉は視覚がない人だけを指すものではなく、弱視の人たちも指していることを理解しておくのは重要である。ここでは2つのテーマについて述べる。最初のテーマはスリランカでは、学校教育の中で子どもたちにどのような支援しているかである。すべての視覚障害児は学校に通う義務がある。障害児には聴覚障害児や自閉症児も含まれるが、視覚障害児に限定している。障害ということばは何かが出来ないという意味ではなく、何かを行うとき別のやり方で行うという意味である。二つ目のテーマは、質の高い教育を確保するために国は何が出来るかということである。教育は国民一人一人の義務である。教育とは何だろうか。教育によって子どもたちは知識を広げ、可能性を最大限に発揮する。しかし、教育ということばは複雑である。学ぶだけではなくスポーツ、音楽、討論などの活動で自分の能力を発展させることも含む。学校教育のお陰で、子どもは早期から発達し始める。その後、高等教育でさらに発達し、教育の結果は自分に適した職業についたときに示される。ここでは最近の視覚障害教育関係の統計、問題点と可能な解決方法を示す。問題の解決方法は視覚障害学生とロービジョンの学生とでは異なる。
 2003年の社会福祉省の統計によると、視覚障害学生の71%が何らかの教育を受けており、彼らの中で平均より高い値を示したのは6%だけあった。他の調査によると卒業した200人の視覚障害学生の多くが教師となったほか、弁護士になったものもいる。全国には盲学校が13校、約2500人の視覚障害学生がさまざまな地域で学んでいる。統計は視覚障害児童のすべてが学校に通っているわけではないことを示している。国は子どもたちに教育の機会を与えるよう対策を建てる必要がある。国はどの地域に住んでいようと、学校に行けない子どもたちに奨学金を出して援助しなければならない。点字は視覚障害者にとって共通語である。それゆえ点字の読み書き教育は絶対に必要である。短期間なら子どもを特殊学校で教育するのは有益だろう。それらの学校は子どもにとって最も良い方法で教育することが望ましい。しかし、長期間の教育ではこの方法は理想的ではない。というのは彼らはやがて晴眼者のいる社会へと出て行くからだ。視覚障害学生だけの大学もない。
 1994年にサラマンカ宣言が採択され、行動の枠組みが示された。「人間の尊厳と人権の行使のためにはインクルーシブと参加が必須である」。宣言の指針となる原則は、学校は子どもたちの身体的、知的、社会的、情緒、言語的もしくは他の状態と関係なくすべての子どもたちを対象とすべきである、ということである。これらの計画は導入され実施されているが実施の速度は遅い。第一にインクルーシブ教育のシステムを取り入れている学校は数少ない。第2に専門的な訓練を受けている教師は複数校に派遣され、担当する子どもの障害はさまざまである。視覚障害児童は最も注目されない。普通校の教師は点字の知識や専門的なソフトウエアを使いこなすためにリソースセンターで訓練を受ける必要がある。
 私の場合は全盲であったが、教育はすべてメーンストリーム校で受けた。私は幸運にもブレール・ノートテイカーを使って勉強し試験を受けることが出来た。さらに活字を電子化するソフトウエアも持っていた。そのため普通学校で勉強するのは容易であった。たぶん私はスリランカではこれらを持っている数少ないうちの一人だろう。これらの機器を購入するのは大多数の学生にとって容易ではないと思う。もし、これらの機器を視覚障害学生が容易に手に入れることができるなら、彼らはインクルーシブ教育の中で良い結果を出せるだろう。学生は授業内容を録音する機会を与えられるべきである。録音は学習に非常に役に立ち、学生は誰の助けも借りずに勉強できる。弱視学生には拡大文字の教科書が配布されるべきで、点字の使用を期待されるべきではない。
 学生や教師は視覚障害学生がスポーツや課外活動に参加するのは重要なことであることを認識すべきである。視覚障害スポーツの専門員が少なくとも1週間に一度は指導すべきである。そうすれば他の学生と共にスポーツを楽しむことができる。子どもの発達にとってスポーツは学習と同じように重要である。ジョン・F・ケネディが述べているように、「私たちは、すべて同じ能力を持っているわけではないが、能力を伸ばすための機会は同等になければならない」。
 学生は学校生活でも責任ある役割を進んで引き受けるよう努めるべきである。数学や会計などの学科では計算が必要となる。経済ではグラフが出てくる。人的援助があれば、視覚障害学生でもこれらの学科を学ぶことは可能である。私は受験勉強の際に支援を受け、これらの科目の公的試験受けることができた。今ビジネス界ではITが必須であるから、視覚障害学生はコンピューターを使いこなすことが必要である。教師は訓練を受け視覚のないことがほとんどのことをやり遂げるのに障害にはならないことを認識する必要がある。
 しかし、解決策がいつもあるとは限らない。スリランカは開発途上国で、優先的に行うことは他にもたくさんある。通常の教師にとって、点字を学び、専門スキルの訓練を受ける時間はないかもしれない。また親の中には、視覚障害のある子どもには学校教育は必要ないという保守的な考え方をいまだに持っている人もいる。こういう親にこそ教育が必要である。国の重要な役割の一つは、私たちの未来を形あるものにすることなのだから。
  ヘレン・ケラーはこう言っている「十分に時間をかければ、やりたいことは何でもできる」と。


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