■国内の部 佳作 「とわに響け!我が人生の応援歌」 大阪府貝塚市 山本明(40) |
| 「チッキッチン、トッコットン」。澄んだ鐘の音と弾むような小太鼓の音が絶妙なハーモニーを醸し出しています。そこに体の芯まで響くような大太鼓と心に沁み入る篠笛が加わります。大阪府南部、泉州と呼ばれる地で秋になると行われるだんじり祭りのお囃子です。泉州では鳴物(なりもん)と呼び、そのテンポによってだんじりの速さを調節します。視覚障害者には珍しく、音楽に興味の無い私が愛して止まないリズムです。彫刻の素晴らしさなど、あらゆる角度からだんじりをとらえ、研究を重ね、泉州はもとより近畿各地の祭りを見に出かけました。 私は生まれながらの強度の弱視で、しかも片眼だけしか見えていませんでした。それでも普通学校に進学し、大学まで出ました。就職活動で初めて大きな壁を感じました。何十社と受験したものの、結果は不合格の山でした。唯一受かったのが今の会社でした。考えもしなかった業種でしたが、文句は言えません。まだ学校を出れば就職するのが当たり前だった今から18年前のことです。いざ会社に入ってみると実に厳しく、みんながどんどん辞めて行きます。私は就職の厳しさを知っていたので簡単に辞める訳には行かず、頭の中の鳴物に励まされ、時には自分を奮い立たせて必死にしがみついていました。精神力は保てても体の弱い部分、即ち目には負担がかかったようで就職後一気に悪くなりました。記録を取る字はボールペンからマジックに変わり、何度も手術を受けてかろうじて見えているような状態でした。ところが遂に2003年7月、帰宅後目の前が真っ暗になって何も見えなくなりました。網膜はく離でした。手術は行われましたが視力は戻りませんでした。入院中に一時帰宅すると、今までみえていたのが見えないと言う歴然たる事実を突きつけられ、また眼圧の高さから来る頭痛とも相まってやるせない気分で一杯になり、涙が止まりませんでした。鳴物は完全に止まりました。 やがて眼圧が下がり体が楽になると、周りは悲しみに暮れているにも関わらず、私は既に使い始めていた画面読み上げソフトを組み込んだパソコンを会社に持ち込めば仕事が出来るのではないかと密かに考え始めました。そのためには白杖を使っての歩行訓練や点字の習得などとしなければならないことがおのずと見えて来ます。頭の中の鳴物がゆっくりではありますが、力強く再び鳴り始めました。視力が衰える過程で失われた視力を嘆くのではなく、残った視力でどう工夫するかを模索すると言う思考回路が自然と定着しているようです。9月に退院するや、すぐに歩行訓練に着手しました。見えていた頃でも白杖を持たないと危ないと言われていましたが、当時は変なこだわりが有って持ちませんでした。正しい使い方を教わり、目的地までの点字ブロックの配置や目印となる物の存在を把握した地図が頭の中に出来ると比較的すんなり歩けるようになりました。11月には会社まで一人で行き、ノートパソコンを使って実際に仕事を試す程になりました。見えていた頃はいくら触っても分からなかった点字もぽつぽつ読めるようになりました。やる気がある時の習得の早さは恐ろしいものです。会社へはパソコンの入力方法の検証や、人事との折衝のために何度も赴きました。同僚の温かい理解にも支えられ、1年の休職の後、奇跡的に復職出来ました。 頭の中の鳴物は快調に鳴っていますが、やはり見えていた頃とは違い、働くのは決して楽ではありません。生活に占める仕事の割合がぐんと高くなりました。企業にとっては視力の有無に関わらず生産性の低下は許されません。晴眼者の読み書きと同等のレベルでパソコンの文字入力と音声によるデータ確認を敏速にこなさねばなりません。神経を磨り減らすのは仕事だけではありません。往復3時間にも及ぶ通勤時間もです。かつては睡眠や休息時間だったのに、雑踏の中を歩いたり、電車の乗り換えはとても気を抜く訳には行きません。お世辞にも見えなくなっても不自由はありませんとは言えません。趣味も継続出来なくなりました。だんじりも見えなくなり楽しみは減りました。しかし、祭りに音を聞きに出かけることだけは譲れません。だんじりが疾走している様子を聞くと元気になります。鳴物は私の応援歌なのです。読者の中には「どうしてそこまでして働くのか」とお思いでしょう。それは働く場があり、社会で居場所があることは素敵だからです。これからも許される限り、仕事は続けたいと思います。応援歌をバックに働き続けるのが私の夢なのです。 |