■国内の部 佳作 「歩きながら考えてきたこと」 東京都立川市 宮昭夫(60) |
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その日、私は友人と会うために、それまで利用したことのないK駅に向かう電車に乗っていました。駅に着いて電車の扉が開くと私は、急いでホームに降り、出口へ向かう階段を探すためにしばらく周囲の音に注意を集中します。人の流れや駅の外の道路の雰囲気などから何とか検討をつけて、私はやっと歩き出しました。ほんの数歩しか歩かないうちに、駅の改修工事でもしているのか、けたたましい機械の音が鳴り響きます。折しも左側のホームには通過電車が轟音とともに進入してきました。強風の中で深い谷に渡された丸木橋を渡るような恐怖で身を硬くして立ち尽くしてしまいます。二つの轟音のなか、私が前に進むために有効な音の手がかりはすべて消し去られてしまいました。 しばらく立ちすくんだ後、私は思い切って歩き始めました。強く杖をコンクリートの床に打ちつけながら、私は全身を預けます。誰かが破れかぶれな全身に気がついて声を掛けてくれることを当てにしていたのです。 私の危険で、ずうずうしい期待は10秒ほどして受け入れられました。誰かが大声で「どっちへ行くの?」と声を掛けてくれたのです。負けずに大声で「出口はこっちでいいんですか?」と叫び返します。 「いいけど、もっと右へ寄らないと危ない」 すぐには彼の指示に従わず、「こっちですか?」と、念のため左の方向を指し示しました。 「そう。そっち、そっち」 彼は自分の間違いに気がつかずに、そう答えます。 「どうも、ありがとうございました」 私は急いでいたので、彼の間違いを指摘することなく、出口へ向かって歩き出しました。 当然ですが、向き合っている時、右と左は逆になります。ところが、とっさの場合、多くの人がそれを忘れます。それは私達にとって命の危険につながります。 昔からよく、「盲人は疑り深い」と言われます。それは考えてみれば、ある意味で当たり前のことかもしれません。多分、目の見えない人間は疑り深くなければ生きていけない側面があったのです。しかし、とっさの場合、私達は相手を信じるしかありません。そして、結局は相手を信じます。かなり昔にはやったフレーズを借りて言えば、「目の見えない人間は疑り深くなければ生きていけない。だが、人を信じられなければ生きる資格がない」といったところでしょうか。 あまり自慢できることではありませんが、私はこれまでに4回ホームから転落しています。白杖を使って本格的に一人歩きを始めてから45年近くになりますから、およそ10年ちょっとに1回落ちていることになります。ほぼ毎日のように外出していたことを思えば、10年に1回というのは多かったのか、少なかったのか。幸いにも私の場合は、転落した直後に電車が近づいてあわや危機一髪といった身の毛のよだつような経験はしなくて済んでいます。ただ地下鉄のホームから落ちた時は正直、「これで終わりかな」と思いました。それというのも当時、「地下鉄はレールの側に架線があるから、落ちたら触れて死ぬ」と聞かされていたからです。間違った情報だったからか、2本のレールを同時に触らなかったからか、よく分かりませんが、とにかく私はこうして今も生きています。 現在では、視覚障害者の外出には、ガイドヘルパーという制度があって、まだまだ問題点はあるものの、年々利用者が増えています。もちろん、こうした状況は福祉の向上を示すもので、歓迎すべきことです。よく言われるように、障害者の自立とは単純に何でも自力でできるということとは違います。有効な介助を受けながら、仕事や社会参加に積極的に取り組むことがより豊かな自立への道です。 それはそうなのですが、私は未だに、杖1本を手に世界と向き合う時の、あの独特の感覚が嫌いではありません。それは、言ってみれば視覚障害者としての私の原風景のようなものなのです。無防備なまま世界の真ん中に放り出され、不安と緊張の中、目以外の感覚が必死に収集した情報を分析し、判断しながら文字通り、一歩一歩を踏み出していく。それは、ありふれた日常であると同時に、まぎれもなく目の見えない人間に固有な日々の冒険なのです。よく分かってはもらえない感覚かもしれませんが、そこにははかなく危険に満ちたものではあっても、やっぱりある種の「自由」があるのです。 既に60を超える年齢になりました。耳も運動神経も日々、衰えて、これからは妻やガイドヘルパーの方の手を借りることが多くなることでしょう。これまでとかく、感謝の気持ちの足りない心貧しい人間だった私のような者にはいいことかもしれません。でも、もうちょっとだけ、私は一人で歩いてみます。視覚障害者にとって(少なくても私には)、一人で歩くということは、自由と安全、懐疑と信頼、自立と依存といったことを深く考える重要な道程なのです。 今日も私は、白い杖を片手に文字通り、正しい「道」を探しながら歩いています。 |