■海外の部 佳作 (Aグループ − 26歳以上)

 「私の人生と点字」  ベトナム ニュエン・トラム・ザン(46歳・男性)

 1967年、私が4年生の時、私の家はアメリカの空襲で爆撃されました。爆弾の熱で私は目を負傷し、角膜が傷付きました。治療法はなく、視力はだんだん弱くなり、ついにまったく見えなくなりました。とてもつらく、自分の運命を思うと泣きたくなりました。
 ある日、近くの村の女の子が私の前に現れました。彼女は私に真実の愛、思いやり、理解を示してくれました。まもなく私たちは結婚し、ささやかなお祝いをしました。その後10年を、奥行き12メートル、横幅2メートルの満足な家具もない家ながら、幸せな日々を過ごしました。4人の子どもにも恵まれ、私たちは一生懸命働きました。
 不幸にも、何回もの出産と働き過ぎから妻は病気になってしまいました。そのため長女は私と一緒に物乞いして生活の糧を得るため、学校を辞めなければいけませんでした。
 1992年のある雨の夏の午後、クアンビン地方で物乞いをしていた時、小さなキオスクで休む場所を探さなければなりませんでした。私たちが休んでいる時、キオスクの店主が「私の名はスィエム・フエ」という題名の、ファム・バーによって書かれた話を読んでいるのを耳にしました。その話の登場人物や内容は眠気を吹き飛ばすものでした。その本から私は、この世の中には親切で、心に余裕のある人もたくさんいることに気づいたのです。しかし、日々の暮らしが少しでもよくなるようもがきながら、消えることのない希望を大事に抱えている不運な人も多くいました。自分の場合は考えてみると後者でしたが、私にはまだものを考えることのできる頭脳がありました。ただ盲人だからというだけで人生ずっと物乞いとして生きる必要はないと気づいたのです。どうして、娘に字も読めない厳しい人生を送らせることができるでしょうか。
 私は人生の苦難に立ち向かうために家に戻ることに決めました。その方が物乞いをするよりはまだ耐えられると感じたからです。私の決心は正しかったのです。というのも戻ってすぐに、ギロック地方の盲人協会が設立され、私は会員として受け入れられたからです。竹の爪楊枝やほうきを作ることで家族の収入の足しにすることもできました。協会は農業や畜産のための資金も貸してくれました。
 とりわけ重要だったのが盲人のための教室に通う機会があったことです。最初のころは、点字記号を指で感じ取るのはとても難しいことでした。というのも、私の指はきつい労働で酷使されてできたまめでいっぱいだったからです。それでも、自分と自分の家族に明るい未来を望むならこの困難をなんとか乗り切るしかないと自分自身に言い聞かせました。こうして私は、初めて点字に触れ理解できた時、喜びの涙を流したのでした。
 毎晩私は、ドイモイ新聞を起きたらすぐ読めるようにベッドサイドに置いていました。2カ月間、一生懸命練習して点字をうまく使えるようになりました。
 私は科学技術を含めあらゆる種類の本を読みました。効果的に農耕栽培できるような知識を得て、家族の収入や生活水準をよくすることができました。点字があったから子どもたちの学校の勉強をみてやることもできました。点字で盲人の友達と文通することで互いの経験を分かち合い、励まし合うこともできました。
 やがて、私は書く技術も上達していきました。解放戦線での兵士の英雄行動、故郷の発展、ベトナムでの障害者の苦闘などをつづっていきました。作家として何百キロも旅行し、作品はラジオで放送され、新聞に掲載されました。作品は評価を受け、多くの文学賞をベトナム放送局や「Nghe an」新聞からもらうことができました。
 出版社の支援もあり、短編、子ども向けのお話、詩集、文学評論などを含む本を何冊か出版することもできました。今、私は「向上心」というタイトルのかなり長い話を仕上げているところです。この本を書いた目的は障害者も意志の力によって何ができるのかを示すことにあります。
 蓄えてきたお金で、家族は今や快適で家具も満足にある家に住むことができています。本棚には1000冊以上の点字本があり、庭にはフルーツがあふれています。
 私の人生でとても大事な役割を果たしたのは点字です。点字のおかげで劣等感を克服でき、社会の一員としてコミュニティーに少しずつ近づくことができました。本当に、ルイ・ブライユが発明した点字は私にとって明かりの源であり、それがあらゆる場所にいる他の盲人の生活をも照らしてくれるよう望んでいます。


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