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| 今、私の心の眼を開くと、消え去った昔の記憶が涙と共に帰ってくる。13歳まで一般の学校に通う元気な少年として時を過ごし、幼い頃からローラースケートで遊んだり、自転車に乗るのが大好きだった。近所に住んでいた木炭車のタクシーの運転手さんに連れられて、よく映画を観に行った。そのせいか、すっかり洋画が好きになり、一人で自転車に乗って、映画館の看板やスチール写真を見ては、そのストーリーを想像し、夢を膨らませていた。 そんな時、来週封切られるアラン・ラッド主演の西部劇「シェーン」の看板を見、スチール写真に深い感動を覚えた。封切りのその日にはぜひ観に来ようと思った。母に入場料をもらい、机の引き出しに入れて毎日握り締めては、その日を待った。 忘れもしない1953年10月28日、小雨降る水曜日の午後4時過ぎ、煙硝火薬の爆発で一瞬にして私は光を失ってしまった。新聞記事に顔写真入りで「両眼失明、1カ月の重傷」とあったと聞いている。 入院中、診察のたび主治医に「これが見えますか」と尋ねられたが、私の眼には赤や青、黄色、金色、銀色など、色とりどりのスポンジのようなものがグルグルと動くばかりで、その向こうにブラインドが下ろされているようで何も見えなかった。ちまたでは、「シェーン」が上映されているらしく、ベッドの枕元に置かれたミニチュア真空管の携帯ラジオからは、私が観るはずだった「シェーン」の主題曲「遥かなる山の呼び声」が流れていた。その時はまだこの映画を観ることができると信じていた。 1カ月の入院後、私は家族にだまされて「見える時が来るまで点字を覚えておこう」と言われ、翌年の春、大阪府立盲学校へ転校した。学校に慣れない頃、歩いて行く足元に階段があるかもしれない、溝があるかも分からないと思うと、一歩も足を前に出すことができなかった。しかし、付き添ってくれる人を信頼し、踏み降ろす足元には必ず地面があると信じた時、歩くことができた。点字はすぐに覚えることができたが、楽譜は難しかった。しかし、この楽譜が後に私の人生に光を蘇らせてくれることを、この時まだ知る由もなかった。 新学期も始まり、盲学校の生活にも慣れ、失明していることを忘れるほどの自由もあった。しかし、心は満たされず、晴眼者の時から習っていた柔道を一生懸命し過ぎ、私は身体を壊してしまった。失明の上、羽をもぎ取られた鳥のように心は虚しく空白になっていった。ある日、友人に誘われ、子供の頃から好きだった映画音楽を聴くために労音に入会した。当時ポピュラー音楽と呼ばれていた一流の演奏を毎月、聴きに行った。心に響く演奏を聴くと、眼の前でグルグルと動くスポンジのようなものの色が変わるが、右から聞こえてくるトランペットの音が黄色に見え、中央から聞こえるフルートが輝く銀色に、左のピアノの高音がキラキラと光る露のように、ベースは濃い茶色に見えて、あたかも花咲き乱れる花壇を見ているようだった。きれいな音楽には色があることを、そして心も弾むことを知った。 結婚し子供にも恵まれ40代になった頃、ピアノで映画音楽を弾きたいと思い、知人にお願いをし、私の家でレッスンをしていただいた。知人は市販の楽譜、私は点字楽譜のバイエルで教えていただいたが、きれいな和音が出るたびに眼の前が明るく彩られ、それは楽しかった。引越しでレッスンができなくなり、私はフルートを始めた。しかし、私のフルートには音色はなかった。一抹の虚しさを感じている時、娘が誕生日のお祝いにと、映画主題曲集のテープをプレゼントしてくれた。何度聴いたことか、曲にはまさに音色があった。 昨年のある日、娘が「今夜、シェーンが放送されるよ」と教えてくれ、ビデオをセットしてくれた。私たち家族は、その時間を待ち構えた。映画は字幕だった。アラン・ラッドの生の声。少年の可愛い声。妻はずっと字幕を読み続けてくれた。堅く閉ざされて何も見えないブラインドの向こうで演じられているバックから、病院のベッドで聴いたあの曲が、盲学校の寄宿舎の誕生会に150人の前で横笛で吹いたあの主題歌が、娘からプレゼントにもらったテープの中に入っている、あの「遥かなる山の呼び声」が聞こえる。そして、黄金の輝きを見せてくれた。 遠く彼方に消え去った、あの時に見たスチール写真のかすかな記憶を手繰り寄せながらその夜、私は51年ぶりに心で「シェーン」を観た。母にもらった入場料の代わりに久しぶりにフルートを手にし、「遥かなる山の呼び声」を吹いた。やはり音色はなかったけれど、遠のいていった記憶と失った光を取り戻したかのように心がバラ色に輝いた。 |