■ 国内の部 優秀賞
「紙芝居でライフスタイル」  栃木県宇都宮市・平山マスミ(ひらやま ますみ)(63歳)  
(三療業・主婦)

  私は幼いころ、とても乱暴な遊びが好きでした。しかし親戚でろうあ学校に勤めていた女性がいて、「マスミちゃんの教育は専門の盲学校にお任せした方が良い」と熱心に諭された両親は、当初まだ、幼稚部などなかったにもかかわらず、適齢よりも1年早く盲学校に入学させました。当時は不憫、かわいそうと家族がなかなか踏み切れず、結局4年も5年も遅れて入学した生徒がほとんどで、私はまるで赤ちゃんのように甘やかされ、かわいがられました。
  2年生になって間もなく、私は体調を崩し「先生てそか(疲れる)」と訴えました。驚いた担任は「こげんこまんか子が(こんなに小さい子どもが)我がで(自分で)てそかなんちゅうた(だるいなどというのは)ただごっじゃなか(ただごとではない)。よっぽどでなきゃ、こげんこた言わん」と言って校医さんに相談し、検査。結果は「肺結核」。長期にわたる自宅隔離ということで休学をよぎなくされ、両親に連れられて恋しい家族の元へ帰りました。
  しばらくは食欲も、遊ぶ気力もあまりわきませんでしたが、持ち前のおてんば虫は次第に頭をもたげ、こっそり家を抜け出し山で木登りしたりニッキの葉や皮を食べ好奇心を募らせるようになりました。「ケセン(ニッキ)はあんまりかまんごと(あまり食べないように)せえよ、胃に悪かでね」などという注意はどこ吹く風、母の心配をよそに毎日、山や海に出かけ気が済むまで遊びほうけていました。けれど誰も私の側には寄り付きません。結核はとても恐い病気とされていたし、それに子どもたちは皆学校に行っていて誰にも会えるはずはなかったのです。ある日の夕方「カチカチ、カチカチ」と遠くで拍子木を打ち鳴らす音が聞こえてきて、学校から帰ってきたばかりのみんなが一斉にその方に駆け出しました。私はみんなの後を追いました。行き着いたところは集会所(今の公民館)の広場。てんでに拍子木おじさんのところへ行って何かもらっています。とりあえず私もおじさんの側へ急ぎました。「ああ、お嬢ちゃんは目が悪いんだね! じゃあおじちゃんの側にいなさい。分かりにくいところはちゃんと説明するからね」。そう言いながら私の手に割りばしの端っこを持たせてくれました。「水あめ、なめながら聞いて」
  それから大きな通る声で「黄金バット」や「マッチ売りの少女」の話をとてもじょうずに聴かせてくれました。「はい、今日はこれでおしまい。ありがとね」。そして私の頭を撫でながら「また来るからね」。私はコックリうなずきみんなと一緒に掛けて行き、久しぶりに遊びを満喫したのです。みんなはもう私を遠ざけたりせず、これまで通りに遊んでくれました。紙芝居との出会いはそれが最初です。おじさんのお話を聴いた後はみんなと遊ぶ。それが通例になりました。そんなある日の夕飯の時、弟がいかにもうらやましそうに言ったのです。
  「おや(俺は)じぇんの(お金を)持って行かんで、ちっと離れたとこいから(少し離れたところから)隠るうごとして(隠れるようにして)見といどん(見ているけれども)ねえちゃんな、じぇんもはらわんじん(払わずに)いっちゃん良かとこいで(一番良いところで)紙芝居を見とったっど、おっかん(見ているんだよ、母ちゃん)」。弟の言葉はひどくショッキングでした。見えないということは何と大胆に恥知らずな悪いことをやってしまえるのだと悲しくなりました。紙芝居とはお話をたくさん知っているおじさんが子どもたちを楽しませるために披露してくれているのだとばかり思っていたのです。事実を聞いた母は次の時一緒に行って心からわび、お金を払わせてと懇願しました。しかし、おじさんは笑って「どうか気にしないで下さい。この子も戦争の犠牲者ですからね。私にできることはこんなことぐらいしかないので、私の気の済むようにさせて下さいませんか」。
  そのころはまだ反戦とか犠牲者とかが平和へつながる重大な意味を持つ言葉だなどとは分かりませんでしたが、母が涙声でお礼を述べていたことを今でも鮮明に覚えています。
  4年ほど前にふと余生をどう生き、どんなふうに安らかな「死」を迎えられるかという思いに突き当たった時、知り合いのKさんに話をしてみました。画家で紙芝居作家、絵本作家の彼女は少し考えてから、「ちょっと工夫は必要だけれど紙芝居やってみませんか! それにはまず『紙芝居文化の会』の交流会に参加してみてお考えになったら良いと思います。私からも話しておきますから」。私はその年の交流会に申し込み、参加。それから次回の講習会受講を希望し、快く受け入れていただき、盲導犬「ベル」と夫(全盲)に付き添われ月1回、午後6時半から9時まで、毎回高速バスでの日帰り受講は半年間続けられ、やっと修了書を手に帰宅したのは午前1時。紙芝居では障害者の受講者は世界で私が初めて、ということもあって平山家にしてみればこれまでにない最高の幸せ。真夜中にもかかわらず二人プラスワンで祝杯を挙げともに喜び合ったことは言うまでもありません。
  今私たちは「栃木紙芝居の会」を立ち上げ、これからのライフスタイルに向けて準備真っ最中です。障害者も健常者もともに「紙芝居」を通して「相手を思いやるやさしい心」をはぐくめるようなメッセージを送り、いつも温もりを感じる「まちづくり」の一端を担いたいと考えています。そのためにはまず自ら「愛」を忘れてはならないと思うのです。

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