■海外の部 ABU地域 佳作 (シニア・グループ) 「点字と音声機器」 インド カマルバー・シンド・ジャジ(45歳・男性) |
国語教師として、教師を養成する者として、私はリスニング(聞く)、スピーキング(話す)、リーディング(読む)、ライティング(書く)という4つの基本的な言語の技量を強調したCommunicative Language Teaching(CLT)の学習法を普及させています。聞く技術と話す技術は、就学前の家庭でその最初の段階が非公式ながら始まることから、第1の技術であると言われます。読み書きは、個人が正規に受ける教育の中で導入されます。聞く、読むというのは、受身の技術といわれます。これに対して話す技術と書く技術は、生産的で表現的な技術だと言われます。言語は、疑う余地なくコミュニケーションの手段であり、なにかを学ぶときや知識や情報を手に入れるための手段なので、これら4つのすべての技術は相互作用し合い、統合されます。一見したところ、点字と音声機器のどちらが優れているかを判断するのは難しいように思えます。けれども、注意深く観察すると、明らかに点字に軍配があがります。 「ものをもらうのにえり好みはできない」は、視覚障害者や点字原稿についても、文字通りの含みを持つかもしれません。教育が得られない場合を想像すれば、実感できるでしょう。学生時代を振り返るとき、講義で使う教科書の点字版を死にものぐるいで探していたことを、今でもはっきりと思い出します。学校では音声で録音された教科書を自由に使うことができました。他方、点字で書かれた物はほとんどなく、自分で作らなければなりませんでした。私はいつも困難を伴う課題を選ぶ傾向があり、苦労して勉強したお陰で、ほんとうに貴重な喜びを手に入れました。高等教育を受ける間、点字の英米文学の教科書は外国の図書館からの貸し出しや船便で借りるなどして、学生時代の貴重な時間の大部分を過ごしました。たいてい、郵便局員が救世主のように点字の本を配達してくれ、その年のクライマックスを迎えハッピーエンディングとなったものです。 点字教科書が手に入らない場合は、音声情報に頼らざるを得ませんでした。けれども、そこでの経験は、概して満足がゆくものではありませんでした。第一に、視覚に困難があると、完全に朗読者の意のままです。大好きなスペンサーなどお気に入りの作品の強壮な肉体の説明やヘンリー・フィールドの小説で、「トム・ジョーンズ」の感覚的な脱線、D.H.ローレンスによる男女の関係の描写、あるいは官能的な小説「チャタレイ夫人の恋人」)など、若い女性の朗読者が声高に読み上げるのがはばかられる場合など、文脈とは関係なく、突然録音から省かれてしまう場合がありました。別の場合には、熱心すぎる朗読者が トーマス・ハーディの「カスターブリッジの市長」を、登場人物ごとに声色を変えてドラマ風に読んだこともありました。アイデアとしてはすばらしいのですが、録音された小説の説明部分しか理解することができませんでした。会話部分は、さっぱりわかりませんでした。点字版がどんなに恋しかったことか。 二つ目は、録音された音声の出力は、聞き取りにくく、緊張を差し引いたとしても、教科書の理解はとても困難でした。これは、朗読者が機械に不慣れな場合などに起こります。 三番目に、音声機器の故障や、カセットテープが巻き込まれたり、電力供給の中断、バッテリー切れなど「ここを聞きたいんだ」という所で、聞けなくなってしまうことがありました。 それに加えて、晴眼者にとってはカセットテープやCDは娯楽を意味します。晴眼者の同僚も音声機器による学習は難しいと言っています。他方、本に書かれた原稿は、学習のための材料です。音声によるものは、概念形成や概念を確立させる十分な助けにはならず、代替品にしか過ぎません。勉学のために音声機器を使っている視覚障害者は、娯楽の一つとしてそれを聞いていると思われがちですが、現に勉学に打ち込んでいるのです。点字の書物がきたとき、つづりや文法の正しい知識が不足していることに気づくかもしれません。 (終わりに) ルイ・ブライユの生誕200年祭が間近になってきました。点字の読み書きを広めることと、視覚障害者に課せられた知識のさまざまなレベルにおいて、適正な基準を採用するでしょう。これは単に視覚障害者が優秀なことを意味しているだけではありません。自己信頼と(自己選択と自己決定を含んだ)自己実現をも意味しています。 |