海外の部 WBU-AP地域 ジュニア・グループ 優秀賞
「勇気の鞭―視覚障害者の課題を乗り越えて」
インドネシア アダム・プラタマ・プトラ(20歳・男性)
 視覚障害者! これは私たちがよく知っている言葉です。マスコミや、電子メディアや、人々の会話など至るところで耳にします。しかし、言葉としては身近なものですが、多くの人が視覚障害者を煩わしく感じ、目障りで厄介者だとさえ思っています。視覚障害者は何もできず、生きていくためには、何から何まで他人に頼らなければならないと思っているのです。晴眼者は、視覚障害者が普通の人と同じように働くことができるとは想像もできないのです。彼らは、間違った考えや否定的な見方で自らの目を塞いでいるため、このような型にはまった見方をするのです。
 今日でも、視覚障害者への思いやりをほとんど持たない人たちがいます。例えば、視覚障害者が通りを渡っているのを見ても、彼らは手を貸そうとしません。ただ見ているだけで、もし視覚障害者が危ない目に遭ったら、「おい、気を付けろ!」と叫ぶだけなのでしょう。
 実際、彼らは言葉で注意を促すだけで、行動を起こす気がないのです。私は、この人たちは、視覚障害者よりも物事が見えていないと思います。
 これは、視覚障害者として私が本当に経験してきたことですが、人々がなぜ私が視覚障害者であることに気付かないのか、不思議になることがあります。私が白杖(はくじょう)を持って歩いているのを見ても意味が理解できないようです。それどころか、私がうっかり彼らにぶつかってしまうと、面白がって笑うのです。私のまねをして、ひどい言葉でばかにする人もいました。
 このような時は、心の中で「Istighfar!」と叫びます。これは、イスラム世界の言葉で許しを請う時に使います。そうすると、心が落ち着き、痛みが治まり、悲しみが癒えるのです。そして、私を成功に導く「勇気の鞭(むち)」を握っている気分になり、元気が出てきます。自信が湧き、強くなった気がして、例え視覚障害者でも自分は普通の人間だということを、周りの人々に示そうと固く決心するのです。私は、普通の自立した生活への道を前進するため、新たな強さを手に入れるのです。
 両親がいなければ、私は今日のように肯定的な自己認識を持つことができなかったでしょう。両親のおかげで、私は視覚障害児財団(YPAB)の盲学校、SLB-Aへ通うことができました。学校で点字での読み書きを習ったので、点字を使ってインドネシア語、英語、自然科学、社会科学、情報コミュニケーション技術、宗教などたくさんの科目を勉強することができました。コーランを点字で読む方法や、アラビア語の点字も学びました。その中でも、私にとって最も重要だったのは、音楽の実技が上達したことでした。これがきっかけで、私は趣味として音楽を始め、ついには音楽の教師になることができました。まさに今の私があるのは点字のおかげなのです。
 その後、スクリーンリーダーのJAWSを搭載したコンピューターの使い方を習いました。作品をコンピューターで作成し、その内容をスクリーン上でJAWSを使った音声で「読む」ことができるようになったのです。
 JAWSの他にも、TALKSというスクリーンリーダーを使っています。TALKSを携帯電話にインストールしているので、画面上の情報やメッセージを読むことができます。おかげで、晴眼者の友人たちに迷惑をかけることもありません。
 私にとって、特に音楽面でたくさんの成果が得られたのは盲学校にいる時でした。ギターとキーボードを習い、ボーカルも担当しました。最初に賞をもらったのは小学2年生の時でした。私は、歌合戦に参加して「Anak Gembala」(「羊飼い」)を歌いました。初めて一等賞をもらい、最高の気分でした。その後、学校の代表として、たくさんの大会やイベントに参加するようになりました。
 私にとって最高の瞬間が訪れたのは、学校を代表して東ジャワ州知事のオフィスを訪問し、歌と詩の朗読を披露した時のことです。知事の名前はImam Sutomo氏でした。私はMelly Goeslawの「Bunda」(「お母さん」)を歌い、自作の詩「Ibu」(「お母さん」)を朗読しました。その時招待されていたゲストの大半が子を持つ母親だったので、私の詩の朗読がみなさんの心に響いたのだと思います。Sutomo夫人に大変褒めて頂き、暖かい抱擁も受けました。夫人は私のことを孫のようだと言って下さいました。私は誇らしい気持ちになり、自分の歌や詩が認められたことは、その時頂いた賞金よりもずっと価値のあるものだと感じました。この時の経験から、私は自分のすることに自信を持ち、堂々と生きることができるようになったのです。
 中学生の時に、友達と音楽のバンドを組みました。バンドの名前はRigletで、点字を書く道具から名付けました。
 ある日のこと、私たちのバンドはジャカルタへ行き、成功を収めたインドネシア人の起業家3000人の前で演奏しました。ジャカルタへ行ったのは初めてでしたし、飛行機で旅に出ることも初めてだったので、とても素晴らしい経験ができました。
 音楽だけでなく、私は文章を書くことも大好きです。短い物語や詩を書くことから始め、その後は報道のニュース原稿まで手掛けました。「Suara Emas」(「黄金の声」)、「Jalan kehidupan」(「人生は旅」)、「Musisi Tunanetra」(「盲目の音楽家」)など、多くの作品を執筆しました。私は、たくさんのコンテストで賞を頂きましたが、最も印象深い賞は、初めてコンテストに応募した創作文「Jalan kehidupan」で頂いたものです。
 今でも、私は文章を書き、音楽を続けています。こうした活動を続けることで、視覚障害者に対する周囲の人々の考え方を変えたいと思っています。視覚障害者も、普通の自立した生活ができることを世間の人々に知って欲しいのです。視覚障害者にも、普通に社会生活を送り普通に働けるような教育を受ける権利があります。視覚障害者の私が今のような生活ができるのは、まさに教育と点字のおかげなのです。