海外の部 WBU-AP地域 シニア・グループ 優秀賞
「音楽の道を歩む視覚障害者の経験と挑戦」
 オーストラリア ドロシー・ハミルトン(88歳・女性)
 1950年4月15日土曜日の午後、私は、オーストラリアのメルボルン大学で音楽学士号を取得して卒業しました。音楽学士号を取得して卒業したのは、南半球の視覚障害者の女性としては私が初めてで、これは、私が子どもの頃から抱いていた夢でした。
 私は全盲の視覚障害者として、音楽教師になりたいと思っていました。また、メルボルン大学の音楽学部に行き、音楽学士号を取得して卒業したいと思っていました。晴眼者の子供たちに晴眼者の学校で教えることができるからです。実に大きな挑戦でしたが、私を止めるものは何もありませんでした。そして、この挑戦を達成したとき、私はさらに次の挑戦に向かおうと決めていました。
 その後、視覚障害者学校であるロイヤル・ビクトリアン・インスティテュートに通い、視覚障害者の先生方から素晴らしい音楽教育を受けました。点字と点字を用いた音楽に重点を置くという、この学校の方針については、本当に感謝しています。卒業後、校長先生がピアノ教師の仕事を紹介してくださり、視覚障害者の職員の子どもで晴眼者の子どもたちに教えることになりました。この仕事は3年間続けました。この期間に経験した多くのことが、のちに役立つことになります。
 この時点で、晴眼者の学校で晴眼者の子供たちに教えるという私の夢を何としてでも実現しようと思いました。教育省が私の希望を聞き入れてくれるはずはないと思ったので、いくつかの私立学校に直接応募書類を送りました。こちらも3年間挑戦し続けましたが、数々の失望を味わいました。面接に行くと、校長先生は私の応募書類に興味を示してくれたものの、音楽の主任教師が強く反対している、またはその反対の状況であったりしました。視覚障害者が晴眼者の子供たちに教えるということは、到底不可能だろうと思われていたのかもしれません。また、子供たちの親はどう思うだろう、と考えていたのでしょう。しかし、断られ続けてもなお、私は応募し続けました。
 最終的には、1952年の年末に近づいた頃、私の先生でもあった有名な視覚障害者の音楽家、ジョージ・フィンドレー先生が、コロワ・アングリカン・ガールズ・スクールの校長に、私が教師の仕事を探しているということを話してくれました。ビアトリス・グイエット校長は私に興味を持ってくれ、面接に来るようにと言いました。校長室に入ると、私が落ち着いて話せるように取り計らってくれました。退室する前、グイエット校長は、私に仕事を任せると言ってくれました。全学年の子供に対してピアノを教えるほか、小学校の音楽の授業を受け持つことになりました。この仕事は6カ月間、担当の音楽教師が休暇中の間だけということでした。これは、自分の夢を実現できるかどうかを自分自身に証明するために必要な機会でした。
 私個人の理由からここで成功しなければならいというだけでなく、音楽を志す全ての視覚障害者に対しても成功を収めなければならないと思いました。私が成功すれば、他の視覚障害者も自信を持って私の後に続くことができるかもしれないからです。そこで無我夢中で働きました。幼稚園から高校生の子供たちにピアノ、理論、音楽の知覚について教え、小学生に歌と音楽鑑賞を教えました。1クラスの人数は30人強でした。
 また、音楽と身体表現の授業のほか、朝の集会でも演奏しました。毎週金曜日に朝の集会が行われていましたが、当時オルガンを弾ける人がいませんでした。そのため、学期末にセント・ジェームズ教会で行なわれた礼拝では、私がパイプオルガンを演奏しなければなりませんでした。高校では、集団で行なう音楽の授業は歌だけで、週2回、外部からの教師が行なっていました。この教師が休みのときは、私が代わりに高校生たちに授業を行ないました。
 予定していた6カ月が過ぎたとき、その年の年末まで残ってほしいと言われました。午後に行なっていた言語発達のための歌の授業を続けてほしいという理由からで、その授業の日が迫っていました。そして、当初の6カ月という雇用期間は5年に延長されました。休暇を取っていた音楽教師が復帰しないことになったからです。この期間中、小学校で聖歌隊を立ち上げ、ソプラノリコーダーとアルトリコーダーを取り入れ、毎週金曜日の朝の集会で賛美歌を一緒に演奏しました。
 私が退職するとき、グイエット校長が私のところへ来て、私の仕事にとても満足しているので、次も視覚障害者の音楽教師の方にぜひお願いしたいと言いました。
 「どなたか推薦していただけますか」と言われ、私と同じように全盲である私の弟を推薦しました。弟はその学校でそれから9年間、音楽教師を務めました。
 私自身は、1970年に個人的に音楽を教え始め、その後、30年ほど続けました。また、約20年間、週に一度視覚障害者の子供たちに点字楽譜を教えました。これまで私に多くのことを与えてくれた点字に、こうして何らかの形で恩返しできたということをうれしく思います。
 現在は、音楽を点訳する仕事をしています。この仕事は30年以上になります。今、私が最も強く願っているのは、点字楽譜という素晴らしい道具を若い世代に伝えていきたいということです。
 ここで、私の仕事になくてはならないもの。それは点字です! もし、ルイ・ブライユがブライユ点字法と点字楽譜を発明していなかったら、私は決して夢をかなえることができなかったでしょう。私が教師になり夢を実現することができたのは、点字があったからです。ルイ・ブライユに心から感謝しています。