海外の部 ABU地域 最優秀オーツキ賞
「視覚障害者のコミュニティはグローバルコミュニティと相反するものなのか?」
レバノン トニー・アタッラー(45歳・男性)

 視覚障害者のコミュニティとは一体何なのでしょうか? また、グローバルコミュニティーとは何なのでしょうか? この二つのコミュニティーの間には何か違いはあるのでしょうか? 視覚障害者はグローバルコミュニティーから関係を断たれているのでしょうか?
 これらの問題は時に疑問として上げられ、時に大きな議論となり、既に細かく分裂した社会を、さらにグローバルとグローバルではないものに分けてきました。コミュニティーとは、自分の街や村に住んでいる類似の利害や生きる苦しみを共有している人の集団と定義されます。これはコミュニティーの論理上の定義です。そうすると、人はグローバルコミュニティーと視覚障害者のコミュニティー等に区分されます。しかし、グローバルコミュニティーは、共通の目標に向かって、人間らしい良識ある大義を主張し、よりよい暮らしを構築するために統合したコミュニティーとも定義できます。一方、視覚障害者のコミュニティーは、境遇によって、あるいは人によってつくられた限られたコミュニティーで、グローバルコミュニティー、すなわち社会全体の切っても切れない一部分であるため、定義することができません。
 つまり、視覚障害者コミュニティーと グローバルコミュニティーとの間には違いはありません。コミュニティーは一つであり、視覚障害者は切り離すことのできないその一部なのです。しかし、グローバルコミュニティーという言葉は、視覚障害者自身がそう生きると決めた、あるいは境遇によってそうならざるをえなかった孤立と隔離という状況からつくり出されました。要するに、視覚障害者は人間です。しかし、何らかの状況が二つのコミュニティーをつくりだしてきました。このように視覚障害者のコミュニティーとグローバルコミュニティーが人為的に区別されてきた理由を詳細に説明します。
1.リハビリテーションの欠如
 視覚障害者は目的なく生きる人生を歩み始めます。周りの意識が乏しく、物笑いの種にされたり、侮辱されたりします。一つの例は、目の不自由な、とりわけ女の子の親が消極的な役割しか果たさないことです。親は視覚障害のある子供をほおっておくことが最善の解決策だと思い込んでいるのですが、その結果、その子は首を振ったり、目に指を入れたり等の悪い習慣を身につけてしまいます。さらに悪いことには、話をしている相手の声が聞こえてくる方向とは逆の方向に首を傾けて話すようになります。目の不自由な子を甘やかせ、度を超えたわがままを受け入れてしまう親もいます。家で座ってばかりで肥満になったり、糖尿病、心疾患を抱えたり、というのは言うまでもありません。さらに、特別な支援が必要な、特に目の不自由な自分の子供を侮辱し、その結果、その子供を社会的に孤立させ、弱い性格にさせてしまう親もいます。
 一方、長年、子供を寄宿制の学校に入れ、ほとんど訪ねることもなく、長期休暇の時だけ帰省させる親もいます。寄宿制の学校の中には、父親、母親、家族、教師としての仕事をするだけで、目の不自由の子供は学問的な教育しか受けられず、地域社会で必要とされる活動ができないところもあります。その結果、そのような学校では、目の不自由な子供は引きこもり、学校内の人づきあいしかできません。社会との接触がなく、家と学校を往復するだけになります。また目が健常でも、もともと内向的な人もいます。これはその人の性格によるものです。
 さらに、目の不自由な子供の中には、不適格な普通学校に就学する者もいます。他の子供は、休憩時間、教室の外に出て歩いたり、校庭で遊んだりしているのに、誰かが放課後迎えに来て、家に連れて帰ってくれるまで、一日中、教室の椅子に座ってひとりぼっちにされます。成長し、大学生になると、ごく限られた数の友人が、代わりに本に名前を書いてくれたり、授業の説明をしてくれたり、家に連れて帰ってくれたりします。こうした視覚障害者は単なる機械と化しているのです。
2.技術の欠如
 レバノンには視覚障害者を晴眼者に統合していくための先端技術がほとんどありません。以下はいくつかの例です。
 a.視覚障害者が働ける場所が限られています。例えば、電話の交換所、病院の放射線科、特に暗室、宝くじ売り場、わらや羊毛技術です。大学教授等第3のカテゴリーの仕事にはほとんどつけません。一般的に、第4のカテゴリーの仕事にとどまり、慣習的に第1のカテゴリーの仕事につくことが禁止されています。法律上、視覚障害者がそうした仕事につくのを阻むものは何もありませんが、この普通の権利が慣習によって否定されているのです。
 b.バスでは、視覚障害者は隅の席に行かされます。視覚障害者がバスに乗ってくると、車掌はぶつぶつと文句を言いながら、隅の離れた席に座らせようとします。視覚障害者は困惑し、バスを降りてしまうか、悲運を受け入れるかになるのです。
 c.知識不足のマスメディア 視覚障害者のインタビューを申し入れ、スクープにして、金や利益を上げようとするマスメディアがあります。オーナーが情け深いと主張するもので、決して建設的な楽しい番組ではありません。これは、とりもなおさず、なぜこうしたマスメディアが知識や意識に欠けているかを示しています。
3.視覚障害者の性格
 視覚障害者の中には他の人と接触するのを嫌がる人がいます。学校、大学、キャンプ、遠足の時も他の人と一緒にいるのが好きな人もいます。介助をする健常者が1人しかおらず、キャンプや遠足等の間、いつもその人と一緒にいることを余儀なくされる視覚障害者もいます。他の人の同情を呼ぶような人もいます。健常者と共に社会で生きる社交的な視覚障害者もいます。従って、視覚障害者の性格が、社会にインテグレーションするか、あるいは人付き合いが悪いかの第1の主な要素になります。
4.親の無知
 自分の子供に視覚障害があることを恥じ、人前でその子の話をしないようにする親もいます。さらに、子供に客人が帰るまで自分の部屋にいるように指示したりします。
 そこで大切なのは、「そのような人為的な差別は誰のせいか? なぜそのような負の行動が視覚障害者に限られるのか?」という点です。
 視覚障害者は、グローバル社会の欠くことのできない一員です。家では有益な家族の一員です。職場では、他の従業員と同じように仕事をします。学校や大学では、他の生徒と同じように生徒であり、同僚と同じように教職員です。私個人の経験では、このような慢性的な問題を解決し、視覚障害者が他の人と共存する統合社会をつくる方法はたくさんあります。
 視覚障害のある自分の子供の扱い方がわからない親には、教育をしなければなりません。ここでは親は重要な役割をします。さらに、目の不自由な子供は、就学前に生活の中で統合され、近所の遊び仲間と遊び、健常児と人間関係をつくれるようにならなければなりません。よい生活は、学校、のちに大学、における学内のインテグレーションを促進する究極の方法なのです。
 視覚障害者は社会の有用な一員であり、自分のことは自立して行うことができます。従って、自分の部屋の模様替え、食料品の買い物、家族の事について意見を言わせる等、意思決定や家事においても親は彼らを関与させなければなりません。
 視覚障害者は社会の有用な一員です。そのために、大学であれ、キャンプであれ、スポーツ活動の中であれ、健常者と付き合っていかねばなりません。視覚障害者と健常者の友情関係では、双方が十分にインテグレーションしています。視覚障害者にとっても有益な社会人としての力と資質を示す大きな刺激となるのです。
 最後に、もし寄宿舎しか選択肢がないのであれば、親は週に一度は帰省させ、地域社会の近くで過ごし、学校で学んだことについて友達に話せるようにさせるべきです。さらに、兄弟は目の不自由な兄弟を守る主な役割を担います。親の思いやりと愛情が目の不自由な子供の性格を形成する土台となります。
 以上のことから、あなたはなお視覚障害者のコミュニティーとグローバルコミュニティーの間に違いがあると考えるでしょうか? あるいは、そうした違いは避けられるでしょうか?