海外の部 WBU-NAC地域 シニア・グループ 優秀賞
「道具と成長する術(すべ)」
アメリカ ジェシー・キルヒナー (28歳・女性)
 しもやけ。それは、薄着のままでミシガン州の冬を乗り切ろうとする向う見ずな人々にとっては差し迫る脅威です。それでも私は屋外のATMの前に立ち、皮膚を鋭く刺すような冷たい風を気にしながら、手袋をはずし上着のフードをかぶったままヘッドフォンをつけました。それから「カード挿入」という点字表記の上部にある挿入口にすっとATMカードを差し込み、音声ガイダンスに従って小切手を預け入れました。隣のコーヒーショップからのいい香りも、かじかんだ指にしみ入る痛みも気になりません。視覚障害者の私が、一人でATMに預け入れができることに、あらためて驚いていたからです。
 音声機能付きATMや投票機は、ユニバーサルデザインの典型的な例です。これは、主な機器は本来、誰もが利用できる状態であるべきだという考え方です。私は、特にこの2つの機器に感謝しています。なぜなら、お金を扱ったり投票をしたりするときに晴眼者なら当たり前に享受しているプライバシーを、視覚障害者の私も享受することができるからです。
 ATMや投票機はときどき使用するだけですが、毎日お世話になっているユニバーサルデザインもあります。それは世界で最も人気があり最も高性能な機器の一つで、ユニバーサルデザインの思想を最もよく表しているものです。私は誇らしい気持ちで使用しています。
 あるそよ風の吹く夏の朝、長く白い杖を片手に持ち、もう一方の手にはiPhoneを持って私は混雑した歩道を大股で歩いていました。不慣れな場所でしたが、司法試験の予備試験前の緊張感を紛らわせてくれるほどの不安はまったくありません。私は方向感覚が良く、iPhoneの音声ガイド付きGPSも持っているので、試験会場へは十分余裕を持って着くだろうと思っていました。そして予想通り20分も前に着きました。
 iPhoneがあれば外出も容易で、さらに親戚からもらったクリスマスのお小遣いを確認したり、フルートを調律したり、最新のニュースを知ったりすることができます。iPhoneは、生産的な活動や自分の目標達成のために利用できる情報の海への扉を開けてくれるのです。また、まるで奇跡のような方法で、私をさらに豊かな自立の世界にいざなってくれることもあります。
 今度は情報の海ではなく、愛し合うカップルに水のしずくがこぼれ落ちている場面です。屋外の大きな噴水のそばに手をつないで座り、2人きりの世界にひたる私達。その上にそびえる2つの石像の口からは、水が音を立てて滝のように落ちてきます。2人とも落ちてくる水を見ることはできませんが、遠く離れたところにいる見知らぬ晴眼者が豊かに描写してくれたおかげで、その二つの石像は身をかがめたライオンの像であることがわかっています。iPhoneからインターネットに写真と質問を送って、何が見えるか詳しく教えてほしいとお願いすると返事が届きます。これは必要というよりは、単純に好奇心と知る満足感のためにやっていることです。
 このことは、「生きる」ことと「成長する」こと、「受け身で消費する」ことと「創造的に探求する」ことの違いをはっきりと教えてくれます。さらに、「自立」と「相互依存」は密接に関連しているということを、思い出させてくれます。ユニバーサルデザインは、この考えを究極的に表現したものだと思いますが、私が社会との関わりを持ち、社会に受け入れられるという点においては、適応技術も同様に重要な役割を果たしています。
 週末には、点字の電子メモ帳にダウンロードした礼拝テキストを使って、教会の聖歌隊で歌います。高さ調節式の譜面台が重さによって少しずつ下がって腰よりも低くなってしまうので、ちょうどよい高さに戻そうとしていると、聖歌隊の仲間たちが小声でクスクス笑います。
 平日は、MacBookと専用の点字ディスプレイを使って仕事をします。これを使うと、顧客との面談もスムーズに進み、自分が書いた文章をしっかりと見直すことができます。
 週末も平日も時間は点字腕時計で確認します。点字時計があれば、時間通りに仕事をこなすことができ、また何かの集まりで居心地が悪かったり退屈だったりすると、そっと退席するタイミングをはかることもできます。
 このような機器を見せると、「こんな素晴らしい最先端の機器を持つことができてとても幸せでしょう」とよく言われます。大部分は、私も心からそう思います。こんな素晴らしいものを手にして、そう思わないなどということがあり得るでしょうか。アクセスするたびに新たな情報を提供してくれるデジタルメディア。その驚異的な量の情報に瞬時にアクセスできるのです。また、バーチャルな世界から現実の世界へ戻りたいときも、それを手助けしてくれる情報があふれています。
 幸せなことに、私は法律と社会福祉の修士号を取得することができました。そして、他の人たちと同じように仕事をし、地域社会の一員として生活しています。アメリカの各地に住んでいる友達や家族とは、便利なコミュニケーション手段を用いて連絡を取り合っています。点字や音声技術の近年の進歩がなければ、こうしたことは、はるかに困難であったことは間違いありません。
 この点に関して言えば、確かに私は恵まれていると思います。ただ、こういう機器を正当に評価しているというよりは、私が盲目的に崇拝しているのではないかという人がいます。この点については意見が合いません。私が何をするかを決めてきたのは機器である、それだけでなく、今の私自身を作り上げたのも機器であるというのです。私の才能や信念、性格も、これらの機器がなければ花開かないだろうというのです。
 でも、私の考えは違います。私が持っている機器は確かにとても役に立っていますが、でもそれは目的達成のための単なる道具にすぎないと思っています。今の私があるのは、自由に使えるこうした道具ではなく、私の意思の強さと、これらの機器を使いこなす能力によるものだと思うのです。仮に私がデジタル時代の前に生きていたとしても、今ほどの実績がなかった、あるいは今ほどの冒険心はなかったとは、必ずしも思えません。目的達成の過程で、別の道具を見つけていたでしょう。
 この作文を書きながらも、私は来週の引っ越しの準備をしています。また不慣れな場所に行きます。方向を確かめたりバスの時刻を調べたりするのに、またiPhoneに頼ることでしょう。タクシー代を預金するために、またATMを探すことでしょう。仕事の初日には、新たな職場に足を踏み入れる前に、点字腕時計の針を触ることでしょう。それから、ノートパソコンと点字ディスプレイを使って研究プロジェクトに取りかかることでしょう。その研究成果を同僚と一緒に発表したいと思っています。このようにして、私の人生は曲がりながらも進んでいくのです。