国内の部 成人の部 佳作
「忘れることのできない母の言葉」
横浜市 西田 稔(にしだ みのる) NPO法人前理事長 (79歳 男性)
   失明を幸に変えよと言いし母
   臨終の日にも我に念押す
 1957年5月、私は左目の眼底出血を起こし、眼病との闘いが始まった。最初、原因は結核性だと言われていたが、最終的には、大学病院でベーチェット病という難病であることがわかった。その治療法も対症療法以外に打つ手がないこともわかった。病院に入退院を繰り返しながら仕事も続けていたが、1960年1月には、一人歩きもおぼつかないほど視力が低下した。かかりつけの医師による懸命の治療にもかかわらず、視力は回復しなかった。職場からの指示もあって、1960年6月、大学病院に転院した。大学病院でもさまざまな治療を施してもらったが、やはり、視力の回復はみられなかった。
 このころから私は、「もしかすると失明するかもしれない」と思うようになってきた。しかし、「自分だけは例外でありたい」という願望が強かったのも事実であった。大学病院では毎週月曜日は、教授と主治医による定例の検診が行われていた。私はこの検診の際に、必ず主治医に視力回復の見通しについて尋ねた。主治医から帰ってくる言葉は「やるだけやってみないと、結果はわかりません」というのが決まり文句だった。先の見えない主治医の返事は、私の心をいらだたせた。1960年10月の定例検診のときだったが、私は一つの決意をもって診察室に臨んだ。それは、私の質問に対して、いつものような主治医の返事だったら診察室に座り込んで動くまいということだった。私の順番が来てひととおり診察が終わった後、いつものように主治医に質問した。やはり、主治医の返事は同じだった。私は予定どおり診察室に座り込んだ。「先生、今日は私の目がよくなるか、それともだめなのか、はっきり言っていただかない限り、ここから動きません」と言ったのだった。看護婦はさかんに私をなだめる言葉を投げかけてきたが、私は頑として動かなかった。主治医は黙って立っているだけだった。
 どれだけ時間が経過しただろうか。私の後ろにほかの患者さんたちが並んで待っているのに気が付いた。あの患者さんたちには何の責任もない。私は口を開いた。「先生、たとえだめだと言われましても私は驚きません。その時は盲学校に行って新しい人生を歩む覚悟はできております」と一気に言ったのだった。主治医はおもむろに口を開いて「あなたがそれほどまでに考えているのであれば、盲学校に行かれた方がよいと思います」と答えたのだった。この主治医の言葉を事実上の失明宣告と受け止めた。「はい、わかりました」と言って私は自分のベッドに戻り、横になった。
 私の頭の中は真っ白になっていた。「たとえだめだと言われましても驚きません」と大見えを切った私だったが、そうはいかなかった。自分の情けなさに腹立たしかった。看護婦が運んでくる病院食はのどを通らなかった。夜も十分眠れなかった。考えることは否定的なことばかりだった。目が見えないとテレビや映画はもちろんのこと、人の顔、景色も見ることができない。1人でどこへでも行くことが難しい。こんな考え方をしているとすべてが絶望的になり、「生きている意味があるのか。死んだ方がましではないか」と思うようになっていくのだった。まさに最悪の心理状態だった。
 こんなとき、母がやって来た。「少しはよいかね」と聞いてきた。「だめらしいよ」と答えると、母はがっかりしたような雰囲気を見せて「私は毎日、神様や仏様にあんたの目がよくなるように祈っているんだけどね」と言った。そして「私の目は二つもいらない。あんたに一つあげられるものならあげてもよいがね」と言った。私が「今の医学ではそれは無理だよ」と答えると、母はいっそうがっかりしたような感じを見せた。このとき、私は私の失明を私以上に母の方が悲しんでいるのではないかと思った。少し間を置いて、母は言った。「失明はだれでも経験することのできるものではないよ。これを貴重な体験として、これを生かした仕事をしてはどうかね。たとえ、それが小さくても社会貢献につながれば生きがいになるのではないかね」と言った。そして、「また来るからね」と言って母は帰っていった。
 私は母が言った「貴重な体験」という意味について、ずっと考え込んでいた。私の否定的な考え方に対して、母は肯定的であることに気づいたのだった。人間は何事についても肯定的に生きることが生きがいに通ずるものであることもわかってきた。さっそく私は近くの盲学校を訪問して、目の不自由な人たちの教育や職業について当直の先生からこまごまと教えていただいた。教育については「とにかく、点字ができなければ勉強そのものができませんよ」と言って、まずは点字を覚えることの大切さを強調され、点字の一覧表を下さった。職業については、あんま鍼灸(はりきゅう)の業に従事している人が最も多いことを教えていただいた。
 1961年4月、社会復帰を目指して、母に伴われ上京した。三療の資格を取得後、恩師や先輩の支援を得て、盲学校の教師になることができた。誠に幸運だったと今でも思っている。2001年10月、NPO法人を立ち上げて、海外の視覚障害者に視覚障害補助具を贈る活動を始めたが、「貴重な体験を生かしなさい」と言った母が天国で喜んでくれているものと思っている。